『第2章 その秘密の出来事は』-15
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時は遡って三年ほど前の三月。秋月家に一本の電話が掛かってきた。
仕事から帰って入浴を済ませ、缶ビールを片手にドレッサーに向かっていた海晴(33)が受話器を取った。
「秋月さんのお宅でしょうか?」
丁寧な口調の野太い声だった。
「はい。そうですけど」
「剛です」
「剛? さん?」
「篠原剛です」
「篠原……さん? あ、もしかしていとこの? 剛兄?」
「はい。そうです。海晴ちゃん?」
「そうです。やだ、懐かしいね。元気だった?」
「うん。何とかね。君も元気そうだね。弟君、結婚したんだって?」
「二年前にね。高校の時の同級生と」
「それは良かった。彼と最後に会ったのは彼が六年生の時だったよな、確か。もう10年以上も前になるか……」
「そうね。その時あたしは高校生だった」
少し会話が途切れた。
「小さい頃には盆正月にはよく行き来してたんだけどな」
「そうだね。で、どうしたの? 急に電話なんか」
「実は俺たち家族、今K市に住んでるんだよ」
「え? K市って、ここ?」
「そう。ここ」
「いつから?」
「えーと、大学を出た次の年だったから、もう10年になるな」
「ええ? なんで言わなかったの? そんな近くに住んでるんだったら、遊びに行ってたのに」
「ああ、まあ、いろいろと……あってな」剛はばつが悪そうに口ごもった。
「剛兄が結婚した、ってことと、男の子が生まれた、ってことはちらっと聞いたことがあったけど」
剛と利恵、それに遙生の家族は、利恵と剛が大学を卒業した次の年に横浜からK市に転居した。その第一の理由は利恵の実家がこの県内にあり、K市からは電車で一時間余りで行くことができたからだ。これから教師として働くつもりだった利恵にとって、自分の母親が近くにいることはとても心強かった。ただ実家は田舎で学校も統廃合が進み、障害者である剛の就職にも支障があった。その点K市は比較的都会であるにも関わらず自然も多く残り、何より障害者や子供への福祉が充実していると聞いていた。
一歳になるまで遙生の子育てに専念した利恵は、その年にこの県の教職員採用試験にパスして、公立中学校の教諭として働き始めた。彼女が卒業して一年経っていた。
海晴は少し言いにくそうに声を落とした。
「剛兄、車椅子生活なんでしょ? どこかに就職してるの?」
「聞いてくれ。実は五年前に車椅子とはおさらばしたんだ」
「ほんとに?」海晴は思わず高い声を出した。「そうなんだ、良かったね、剛兄。今は普通に歩けるの?」
「リハビリの成果だな。まだ完全に元通りってわけじゃないけどな。走るのはムリだが歩くのに支障はない」
「そっかー、ほんとに良かったね。で、仕事は?」
「こっちに越して来てすぐ、市の社会福祉協議会の事務所に就職できたんだ。今もそこにいる」
「へえ! すごいね」
「この町に来た時にシンチョコのケニーさんにすっごいお世話になってな」
「ケニーさん? そっかー、あの人の一言があれば絶対大丈夫だよね。でもなんでケニーさんを知ってるの?」
「シンチョコのオープンの時から、度々そっちに遊びに行く度に連れて行ってもらってたじゃないか」
「小学生だったよね、あたしたち」
「俺が小五の時だから海晴ちゃんは三年生だったはずだ」
「それから店に行く度に親切にしてもらってたよね」
「大阪弁でしゃべくる賑やかな人だけど、顔が広くてすごく頼りになる人だよ。今も時々行って話すけど、昔とちっとも変わらない。行動力があってポジティブで」
「で、そのケニーさんに就職を斡旋してもらったわけ?」
「そう。協議会の事務所。障害者支援センターの支援課・事業推進課に最初はいたんだ。車椅子の障害者の俺は言ってみりゃ当事者だしな。障害者の視点で仕事内容を考えろ、って言われたよ。ケニーさんにも」
「もう10年になるわけでしょ? 今もその支援課の仕事?」
「二年前から地域活動部の地域福祉課長をやってる」
「すごいね。いつの間にか立派になってるんだね」
「海晴ちゃんは? 今何してるんだ?」
「あたしは紳士服屋の店員。もう七年になるかな」
「そうか。結婚は?」
「チャンスもその気もないからまだムリね」
海晴は笑った。
「坊ちゃんがいるんでしょ? いくつ?」
「……ああ、四月から五年生になるよ。楓小学校に通ってる」
「じゃあホントに近くに住んでるんだね」