『第1章 その警察官、秋月 遼』-4
あと数日で夏休みに入るという暑い日。その日も狩谷省吾はさしたる用もないのに、放課後亜紀を呼び止め、なんやかやと一方的に喋って、部活のバッグを肩に掛け直し、笑顔で手を振りながら廊下を小走りに駆けていった。
遼は一大決心をして一人になった亜紀に声を掛けた。
「す、薄野さん」
亜紀は振り向き、ちょっと驚いたように目を見開いて首を傾げた。
遼が前に立つと、亜紀はにっこりと笑ってよく通る声で応えた。「はい、秋月くん」
「あの、は、話があるんだけど……」
「クラスメートが山ほど行き交うこの廊下で話すような内容? かな?」
遼は赤くなってひどく困った顔をした。
亜紀は相変わらずにこにこ笑っている。少しだけ頬を赤くして。
遼はうつむきがちに小声で言った。「薄野さんは、その、か、狩谷省吾とつき合ってるの?」
一瞬驚いたような顔をした亜紀は、すぐに破顔一笑して返した。「ううん。つき合ってないよ」
遼は安心して大きなため息をついた。
▽
「あの時点でバレバレだったわよ」
亜紀はおかしそうに言った。
「そう? やっぱり?」
「男子って単純よね。すぐに顔と態度に出ちゃう」
「省吾からは何度もアタックされてたの?」
「貴男から告白された次の日に正式に申し込もうって、思ってたらしいわよ」
「聞いたの? 彼に」
「うん。同窓会の時にね」
「もし、僕が君に告白しなかったら、OKしてた? ヤツの申し込み」
「どうかな……自分でもよくわからない」
「気になってたの? 省吾のこと」
「少しはね」
「じゃあ、もしかしたら君はあいつとつき合って、もしかしたら結婚してたかも知れないのか……」
亜紀はおかしそうに言った。
「何よ、今になってそんなことに嫉妬してるの? 遼」
「いや……」
遼はバタンと仰向けになって頬をぽりぽりと掻いた。
「あれが狩谷君のやり方なんでしょうね。押して押して、相手をその気にさせて落とす、っていうのが」
「ヤツのあんなやり方は僕にはマネできないな」
「わかってる。そうじゃない秋月くんだって知ってたから、あたしOKしたのかも。元々好きな男子だったし」
「そうなの?」
「そうよ。傘を貸してあげた時にコクろうと思ってた。さっき言ったじゃない」
遼は嬉しそうに笑った。「そうか……」
「狩谷君みたいに強引なのは苦手だしね……それにあの時の貴男の真剣な目と極度に緊張した表情にきゅんきゅんしてたし、とっても幸せな気分だった」
亜紀は照れた様に笑った。
「もうがちがちに固まってたよ。僕にとってあの数分間がそれまでの人生で最高に緊張した瞬間だった」
「大げさね。でも、」亜紀は悪戯っぽく横目で遼を見た。「夏休み前っていうタイミングで交際を申し込むってことは、夏休み中に深い関係になりたい、って思ってるんじゃないのかな、とも思ったわよ」
「ち、ちがっ! あれは狩谷省吾に君を盗られたくなくて焦ったからあのタイミングになったんだよ」
「そんなこと言って……結局その夏休みに繋がっちゃったじゃない、私たち」
「そ、それはそうだけど……」
「シチュエーションが教科書通りだったね、あたしたちの初体験」
「教科書通り?」
「『夏休みのデート帰りの彼の部屋、家族は留守』って絵に描いたような状況」