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◇
「河野さん、ごちそうさまでした!」
麗子が河野の前に向き直る。
ここは、麗子のマンションの前。河野はここまで彼女を送ってくれた。
さっき飲んだワインのせいか、麗子の頬がほんのり色づいて、瞳は潤んでいた。
麗子のリクエストにより訪れたフレンチレストランは、彼女の住む街の郊外にある、小さなお店だった。
もともとこの店は評判がよかったのもあるが、会社の人の目や河野の恋人の存在を気にしなくて済む場所、すなわち自分の地元で存分に河野と食事を楽しみたかった為、彼女はこの店を希望した。
憧れの河野と、ほんのひと時でもいいから恋人気分を味わいたかったという、ささやかな願い。
それが叶えられた麗子は、幸せに満ち溢れていた。
だが、河野はそんな麗子の思いに気付くことはなかった。
現に食事中も、あくまで話題は仕事のことばかり。
それなりに盛り上がったけれど、彼は純粋に後輩のお祝いをしてくれたに過ぎなかった。
「それじゃ俺はここで」
現に彼は食事以上の展開を全く望んでいない。
それ故に、麗子はこのひと時が終わってしまうことにどうしようもない寂しさを感じていた。
小さく手を挙げ、遠くなっていく背中を見ていると、胸が苦しくなる。
もう少しだけ、一緒にいたい。
そんな麗子の願いが通じたように、河野は突然後ろを振り返った。
「ど、どうしたんですか!?」
「そういやお前、プリウスの鍵持ってるか?」
突拍子のない言葉に、麗子はキョトンと目を丸くしていたが、やがて
「あ」
と、彼が言わんとしていることを理解して、思わず口に手をあてた。
社用車であるプリウスを、今日、麗子は使用した。
いつもならまっすぐ、会社のキーボックスに返却するはずだったのだが、企画が通ったことや、突然の河野のお誘いですっかり返却をするのを忘れていたのである。
しかも間の悪いことに、今日の食事のために彼女は一旦家に帰り、着替えを済ませた。
今の麗子の格好はベージュの少しかしこまったワンピースに小さな革のバッグ。
社用車の鍵は、当然ながらマンションの中、麗子のいつもの通勤バッグの中に入っている。
「す、すいません……鍵ならあたしのマンションに……」
失敗した、と眉根を寄せる麗子に、河野はハハ、と小さく笑うと、
「俺、朝一でプリウス使いたいから、このまま鍵受け取っていい?」
と再び麗子の元へ歩いてきた。