愉楽-2
いっしょに住み始めた頃は、ともに食事をしたり、家のまわりの野山を散策したり、お芝居を
見に行ったり、お互いが自然に相手を受け入れ合う心地よさがあったと思います。ただ、気に
なりましたのは、夫の趣味のことでございまして、長年、日本舞踊をやっていたことです。
もともと日本舞踊の家元の血筋をひく夫ですから、あたりまえと言えばそれまででございます
が、何よりもわたくしが少々違和感をもったのは、夫がいつも女形としてだけ踊るということ
でした。化粧をし、女ものの着物を着て、しとやかに舞台で演じる姿は、ふだんの夫とは違い、
まるで別人のように思え、わたくしは夫が演じようとしている《仮想の女性》に対するつかみ
どころのない嫉妬のようなものさえ感じたのでございます。
夫は結婚して夜の床にいっしょに就いても半月ものあいだ、わたくしの身体に触れようとはし
ませんでした。夫と添い寝をして彼の体温が肌に伝わってくるとき、これまで感じたことのな
い身体の寂しさと火照るような疼きに眠れないときもありました。夫の寝姿を見ながら、そも
そも夫がわたくしに対して、心身を濡らすような情欲を求めることに微かな諦念すらありまし
た。
あれは、夫が家元の系列の発表会で久しぶりに踊った夜でした。何かしら自分の踊りに満足が
いかなかった苛立ちがあったのか、ふだんはあまり口にすることのないワインで少し酔ってい
た夫は初めてわたくしの体を求めました。夫婦であっても六十歳に近い歳の女が明るすぎる灯
りに照らされたベッドに全裸で晒されて、殿方にまじまじと肌を見られるのは、やはり恥ずか
しいものでございます。ましてやわたくしは、この歳になるまで殿方の前に肌を晒したことな
どなかったのですから。
女なら誰しも、おそらくわたくしほどの年齢になっても、まだまだ性愛への憧れはあります。
殿方を知らないわたくしであるからこそ、なおさらのことでした。ただ、夫とは言え、わたく
しにとって初めての男性へ肌を晒すことの恥ずかしさと緊張が、逆にわたくしの欲情とも言え
る疼きをどこかでくすぐり始めていたのは間違いありませんでした。いえいえ、けっして心を
寄せた男性がこれまでいなかったわけでもなく、旅館のお客様の中にはお誘いをお受けした殿
方もございました。でも、これまで抱かれた殿方という存在がわたくしの中にはございません
し、ましてや殿方のものを受け入れたことすらなかったということでございます。
あの夜、夫は煌々と照らす蜜色の電灯の下で、わたくしの着物を脱がせ、ベッドの上に仰向け
に寝かせたのでございます。わたくしにとっては、これほど恥ずかしいことはなく、容赦なく
降り注ぐ灯りに晒された裸体を、夫に隅々まで丹念に視線を這わせられ、指で身体の突起と
窪みのあらゆる女の部分を執拗になぞり上げられたのでございます。ただ指先だけで、まるで
生まれて初めて女の体に触れたように。
それはとても長い時間でした。夫にはもちろん告げたことはありませんが、わたくしが夫に初
めて会ったときから唯一、嫌いな部分が彼の色白い、ひょろりと伸びた指だったのです。いや、
今さらながら思うと、嫌いなのに、なぜか彼の身体の部分で一番、性的で、淫猥なところを感
じさせ、彼の指を拒否したい自分と欲しがる自分が息苦しく交錯することが何度もありました。
その鳥肌がたつような指だけで、わたくしは何時間もからだを撫でまわされたのでございます。
そして、そのとき初めて夫が幼少の頃に男性としての機能を失っており、これまで誰ひとりと
して異性と交わることがなかったことを、わたくしは知らされることになったのでございます。