第三話-9
「ねえ、史乃。」
常夜灯の仄かな明かりの中、由美が唐突に訊ねる。
「なあに?」
お互いが、僅かな明かりに目を向けたまま、言葉を交わしたのは、他愛のない事だった。
「今まで、付き合った男の数は?」
「え?何よ。それ。」
「ちゃんと答えなさいよ。何人?」
実に他愛ない、女性同士の恋愛事情を打ち明け合う筈なのだが、史乃は口隠って本音を吐こうとしない。
「私の事より、由美が先に教えてよ。」
「私?私は五人よ。中二の夏が初めてで、高校卒業までで五人。」
「そ、そんなに付き合ってたの。」
「全部、ダブってないから、私なんか少ない方よ。」
由美の話を聞いて驚く史乃。自分と掛け離れた恋愛体験に唖然としながら、その奔放さを羨ましく思えた。
「さあ、今度は史乃の番よ。」
「私の話なんか聞いても、面白くないわよ。」
そう前置きした上で、史乃は言葉を口にした。
「──し、小学生の頃から恋への憧れはあったんだけど、何だか、男の人がよく判らなくて。
だから、付き合った事はないの。」
「そんなの嘘でしょう!信じられないわ。あんたみたいな美人に、言い寄る男が誰もいなかったなんて。」
由美に疑いの言葉を掛けられ、史乃は思い掛けない程、ムキになって言い返した。
「本当よ。それに私、お父さんっ子で、今でも、お父さん以上の存在に出会った事がないの。」
本人は正当な反論だと思ったようだが、その言葉を耳にした由美は、異常さを感じ取っていた。
「もう、寝ようか。」
由美は、そう言って会話を打ち切り、常夜灯を消した。
暗闇の中、史乃は会話の余韻を感じながら、切り替えようと目を瞑った。が、自室と違う部屋やベッドの匂い、他人の息遣いという滅多にない体験で、なかなか寝付けなかった。
昼間から夕方に掛けて、部屋の掃除でずいぶんと疲れてる筈なのに、他人の家にいる分、気が休まらない為、目は逆に冴えていった。
そんな時、頭の中に浮かんで来たのは一日の出来事でなく、寿明のことだった。
(そう言えば、お父さん。明日から打ち合わせの仕事だって言ってたけど、大丈夫なのかな……。)
自分のせいで、寿明の本業にまで支障を来すのではないか──。そう考えた途端、史乃の中で、身につまされる思いが涌き上がる。
作家という職業は、愛しき父親が長年、命懸けで取り組んできたライフワークだと認識していた。
いくら、一時の感情ではなく、よくよく考えて家を出て来たつもりでも、自分のやってる事は父親の生き甲斐さえ壊そうとしていると考えた時、慚愧に堪えない思いがした。
(──やっぱり帰ろう!)
そうなると矢も楯も堪らず、史乃はベッドを起き出した。
「どうしたの?トイレなら……。」
異変に気づいた由美が、寝ぼけた状態でそう言うが、
「ごめんなさい!私、やっぱり帰るから。」
史乃は暗闇の中、手探りでトロリー・バッグを掴むと、一言を残して寝間着姿のまま、慌てて部屋を出て行こうとする。
「──本当に、ごめんね!」
玄関口の明かりを点け、靴を履こうとしゃがみ込んだ瞬間、史乃は後頭部を殴られたような衝撃によって、声を挙げる間もなく意識を失った。
前のめりに倒れた史乃の真後ろに、警棒のような物を握ったまま仁王立ちする由美の姿があった。
「このまま、帰れるはずないでしょう。」
倒れた史乃に視線を落とす由美の顔は、不敵にも笑っていた。