第三話-11
「──因みに、私の預金口座には大した額は入っていない。不足分を銀行に借りるとして、私のような著名でない作家が短期間で決算出来る額だと、せいぜい五〜六百万円ってところだろう。
となると、さらに足りない額を他から集めないとならない。その日数に三日は掛かるんだ。」
真しやかに嘘を吐く。寿明は、短期間ながら民間企業に勤めていた時期があり、その時の経験が、こんな形で表れるとは思ってもみなかった。
「判った。明日の夕方、もう一度連絡する。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!娘の声をもう一度聞かせてくれないか。」
切迫した父親声が相手の胸に響いたのか、しばしの間を置いて、再び史乃の声が聞こえてきた。
「お父さん……。ごめん。」
しぼり出すような史乃の涙声。しかし、寿明の声は穏やかだった。
「史乃。落ち着いて聞きなさい。通話しているのは、お前のスマホなんだな?」
「うん……。」
「私が必ず助け出してやるから。もうちょっと辛抱出来るな。」
「うん……。本当にごめんなさい。」
史乃の一言を残し、通話は切られてしまった。
恐怖に苛まれながらも、自分への謝罪を繰り返す娘の悲痛さと、何ら落ち度のない者を危険な目に遇わせても金を得ようとする男への憤りが、寿明の心を騒がせる。
一瞬、相棒の山本江梨子へ連絡したい衝動に駆られたが、就寝中に起こしたとしても、取れる手立てが先ずあるまい。だったら、朝になって伝えても遅くないはすだ。
(取り敢えず、金を手にするまでは、危害を加える事はないだろう。)
午前六時までの三時間あまり。寿明は待つ事にした。
寿明が、リビングで眠れぬ時間を過ごしている同時刻。史乃も又、恐怖と失意、そして、後悔で眠れない状況の中にあった。
帰宅しようとして頭部に強い衝撃を受けた後、再び目を覚ました時、彼女の目に飛び込んで来たのは濃色のカーペットみたいな物、それに芳香剤が放つ強烈な臭いだった。
「なに!?由美、何処にいるの。」
恐怖に慄然とする史乃を、嘲笑うかのような顔が二つ見える。一つは由美だが、その形相は何時もと違って憎しみが宿っていた。
「やっと、お目覚めのようね。」
「何故、こんな事をするの!?」
史乃は手足をガムテープで拘束され、ワンボックス車の後部に寝かされていた。
「あんたと、あんたの家族を滅茶苦茶にしてやりたくなったから、彼に頼んだのよ。」
車内ランプに映し出される男は、痩せ柄で金色に染めた髪のサイドをかり上げ、大きめなピアスという出で立ちだが、何より特徴的なのは、切れ長の細い眼だった。
その眼は、史乃の全身を舐めるように見つめながら、口の端を上げて薄く笑っている。その表情は爬虫類を連想させ、史乃の背中を悪寒が走った。
「な、何で!?私達、友達じゃなかったの。」
必死の懇願を試みる史乃に、由美はいみじくも言った。
「一昨日までは、そう思ってたよ。でもね。昨日会って、考え方が変わった。あんたが、私を全否定した瞬間に。」
「言ってる意味が、判らないわ!私が何をしたというの?」
史乃が説明を求めた瞬間、由美は身を乗り出して後部に移ると、史乃に馬乗りとなり、顔面を数発、叩いた。
「だからお嬢様は嫌いなんだ!自分のやった事を何でも正しいって考えで、他人の心を土足で踏みにじるんだ。」
般若のような憎悪溢れる眼が、史乃の面前に迫る。この時、ようやく、史乃は自分が由美を傷付けたのだと悟った。
そうして、自分が車に拉致されたばかりか、寿明に一千万円もの身代金を要求されている事実を知り、後悔と自責の念に苛まれ続けていた。
(私の世間知らずが、由美を傷付け、お父さんに大きな迷惑を掛けてしまったんだ。)
寿明と暮らす前、母親の綾乃と二人、古い市営アパートで慎ましい生活を送って来て、自分なりに苦労したつもりだったが、それは金銭的な不自由さに過ぎず、人との関わりという点では内向的だった為に、苦労しようとせずに過ごしたせいで、他人の心を読む能力が十分に育たずに成長した。
だから、寿明の綾乃への想いを許せなくて家出に至り、親しくしてくれた由美が憎悪を剥き出しにするほど、深く傷付けてしまった。
それら全て、自分の思慮不足が招いた結果だと、史乃は深く自戒した。