雨の夜-3
「嬉しいこと言ってくれるね。夏乃ちゃんに襲われるなら大歓迎だけど。むしろこちらが襲いかかるかもよ?」
がっしりとした指が、妖しく夏乃の手の上を滑り、夏乃の脈が跳ねる。何と応えるのが正しいのかわからず、思わず平野の眼鏡の奥の瞳をみつめてしまった。
「とりあえず、空だしもう一杯飲もうか?もう終電行っちゃったよね?タクシーで送るから」
手が離れ、平野からセクシーさが消えて、いつもの穏やかな笑みに変わったのを、どこか残念に思っている夏乃がいる。暴れている胸の鼓動が止まらない。もしかして、からかわれただけなのだろうか。
「夏乃ちゃん、何にする?」
戸惑い、無言のままの夏乃の前に、いつものようにドリンクメニューを広げてくれた。
「同じのにします。チャイナブルーで。平野次長は?」
「んー、どうしようかな。オレも今と同じでいいや。お腹は?」
もういっぱいです、と答えるとメニューを閉じて店員さんの呼び出しボタンを押した。可愛らしい店員さんがオーダーを取りに来てくれて、それほど待たずにドリンクを運んで席を離れていくと、再び平野の瞳が熱を帯びる。
「夏乃ちゃん、オレが相手じゃイヤ?」
「イヤだなんてそんな。でも平野次長、ご結婚されてるんじゃ…」
いくら酔った勢いとはいえ、既婚の上司とベッドを伴にする勇気はない。
「へ?夏乃ちゃんに言ってなかったっけ?オレ離婚したよ。もう1年くらい経つけど」
「へ?多分お伺いしてなかったかと…」
「そうだっけ?まぁ、ウチは子供も出来なかったし、結婚当初から上手くいってなかったからね。ずっと別居しててさ。ただ、向こうの親御さんが最後まで離婚に反対してて。その親御さんも亡くなってようやくお役御免になってね。お互いにやっとスッキリして、離婚届出してからは1回も連絡取り合ってないよ。だから夏乃ちゃんと元ダンナさんの関係がちょっと不思議だったんだ」
ちびりちびりとレモンサワーを飲みながら、時々苦笑いを浮かべて説明してくれた。そういえば、ご家族に不幸があって、しばらくお休みされた時期があったような。
「そうだったんですね。ウチは娘と犬がいるから行き来がありますけど…いなかったらやっぱり連絡取り合ってないと思います」
「これで不倫の心配はないってことで、大丈夫?何なら離婚届の写しを一応取ってあるから見せる?」
またいたずらっ子のような目をしてこちらに問う。
「そ、そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「じゃあ、これ飲んだらそういう所行く?とっ散らかっててもよければウチでもいいよ?」
再び夏乃の頼りない手は、平野の手に包まれた。
「で、でも。あの私、久しぶり過ぎて、出来ない、かも…」
とりあえずブラもショーツも見られても問題はない。ムダ毛の処理も気紛れで今朝シャワーを浴びた時にしたから大丈夫だけど、それより何より。
ー私、セカンドバージンじゃない?
離婚後、一度だけ火遊びをした際に、相手のモノが立派すぎて最後まで出来なかったことがある。無理強いせず、夏乃の口と手と胸で満足してくれた相手の優しさには感謝しているけれど、申し訳なさは未だに夏乃の胸に燻っている。平野がどれ程のイチモツをお持ちかはわからないけれど。ヤる気満々の相手に、“入りません、出来ません”じゃぁ、申し訳なさすぎる。前回のような見ず知らずの、行きずりの関係ならいざ知らず。あと2週間足らずで異動してしまうとはいえ、上司相手にそれはいくらなんでもマズイだろう。
「大丈夫。時間かけてちゃんと蕩けさせますから。それに万が一今日出来なくても、これで終わりじゃないでしょ?異動するって言ったって、隣の支社だし、しばらくはオレ、今の家から通うし。今日味見してみてイヤだったらコッキリさんでいいし、気に入ってもらえれば彼氏でも、彼氏はいらないんだったらセフレでもいいから、とりあえず酔った勢いで試してみない?」
冷静になってみれば、何でここまで必死に誘う?と思わないでもないのだろうけれど。もう片方の手が腰に回された瞬間、頷いてしまった。
ーもういっそのこと、考えるのを辞めよう。
されるがまま、平野の厚い胸板にもたれ掛かりながら夏乃は覚悟を決めた。
平野は急かすことなく、ゆっくりと飲む。夏乃の決心を鈍らせない為か、甘い言葉を耳元で囁きながら。
「もしかして、夏乃ちゃん耳弱い?」
「もしかしなくても、弱いです」
「そのちょっと困ったような顔、すごいそそられる。もうここで襲いかかりたくなるくらい」
腰の辺りにある肉厚の手のひらがゆっくりと動き出す。思わず声が出てしまいそうで、慌てて唇を噛んだ。そんな反応に気づいたのであろう平野が、夏乃の耳元でくすりと笑う。
「夏乃ちゃん、可愛い」
「可愛くないです」
「感度よさそうだし、楽しみ」
腰から離れていった手は、夏乃の髪に触れる。落ち着かせるかのように、頭を撫でられるが逆効果だ。
ーあぁ、マズイ。スイッチが入っちゃう。
一つ小さく深呼吸をして、何とか一人で座れるように体勢を立て直す。したいようにしなさいとでも言わんばかりの平野の微笑み。視線を感じながら摂取するアルコールは、身体中をさらに熱くする。
「夏乃ちゃん、それ飲んだら行こうか?」
「…はい」
「ホテルでもいい?ウチに連れて帰るまで待てない」
耳元でそう言うと、ぺろりと耳朶を厚い舌で舐める。声を出すのを辛うじて堪えて頷いた。
言葉とは裏腹に、夏乃のペースに合わせてゆっくりとジョッキを傾ける。夏乃のグラスもようやく空になると、行こうか、と促され頷いて立ち上がる。
会計で財布を取り出しても、
「こっちが無理矢理誘ったんだから」
と笑って受け取ってくれなかった。