雨の夜-2
「そんなに褒めていただいても、私、飴ちゃんくらいしか持ってませんよ?」
潤みかけた瞳と照れ隠しにバッグを漁ろうとする夏乃を、平野は笑顔で見守っている。
「飴ちゃんは大丈夫だよ。この前美味しいチョコもいただいたし。山本さん、可愛い」
40も手前になって、お世辞でも可愛いなんて言われるとは思わず、夏乃は耳まで真っ赤になっているのが鏡など見なくてもわかった。
「耳まで真っ赤。可愛い」
ふと隣の席から伸びてきた指が、夏乃の左耳に触れる。ここに辿り着くまでの腰に回された手といい、耳に触れた指といい、ただの上司と部下なのだからおかしいはずなのに、自分でもわからないくらい自然なことに思えた。
ーもしかして、この人相当遊び慣れてるのかも…
そう思わないでもなかったが、不思議とこれっぽっちもイヤだと思わない。むしろ万が一誘われたりでもしたら、うっかり着いていってしまいそうだ。まぁ、夏乃が若かりし頃ならともかく、40手前で出産経験もあるバツイチの部下に手を出すなんて、間違ってもそんなことはないだろうけれど。
それからも平野は会話の端々で夏乃を褒めそやかし、可愛いと言っては耳まで赤くさせた。平野は歳の離れた夏乃の元夫と同世代だろうが、無口で酒でも飲まないと普段の会話は“あぁ”と“いや”だけで成立させる元夫とは大違いで、褒められ慣れていない夏乃を大いに喜ばせ、恥ずかしがらせた。夏乃が恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、甘い言葉を降らせる。
「もう、そんなに可愛いとか言われたら勘違いしゃいますよ?」
「勘違いなんかじゃなくて、夏乃ちゃんは可愛いよ」
アルコールが大分回っているのだろう。平野の目が妖しい。いつの間にかいつもの山本さんから、夏乃ちゃんに変わっている。
「そういえば、今週は娘さんの所に行かないの?」
「はい。先週は前から買い物に行く約束をしてたから帰らなきゃいけなくて。平野次長の送別会だったのに、二次会の途中で失礼してすみませんでした」
先週の金曜は、フロア全体の送別会だった。あまり平野とも喋れず不完全燃焼だったが、同じ県内でも遠方にある元嫁ぎ先へ帰るにはかなり早くここを出なければならず、泣く泣く二次会の途中で退出したのだ。それでもこの春六年生になるパパっ子の娘には、“ママ遅い!”と散々怒られたけれど。
「いやいや。元ダンナさんはちゃんと迎えに来てくれた?」
どうやら駅まで元夫が迎えに来てくれるかわからないという話を覚えてくれていたらしい。
「迎えに来させましたよ?缶ビール買わされましたけど」
「向こうのお家は駅から遠いって言ってたから、タクシー代払うよりよかったでしょ?」
「まぁそうですけど。調子に乗って“ちょっと贅沢な”ビールの500缶を2本も買わされました」
歳の離れた元夫は、自由人で定職に就こうとしない人だった。今もアルバイトで、慰謝料も財産分与もなかったが、夏乃は娘のために仕送りを続けているような状況だ。しょっちゅう娘とも元夫とも連絡を取っているし会うことも多いから、離婚したというよりも単身赴任しているような錯覚に陥ることも多いほどだ。
「でもそれって泊まりでしょ?なんだかんだ言って元ダンナさんと仲がいいよね」
「んー。仲がいいっていうか、娘たちという人質と犬質がいる以上仕方ないですよね。夫としてはダメな人だったと思いますけど、娘たちの父親としてはよくやってくれてると思いますし、一応感謝と尊敬はしてます」
「一応なのね。ねぇ、ヘンなこと聞いていい?思いっきり下ネタだし、セクハラだけど」
「20代そこそこのお姉ちゃんじゃあるまいし、どうぞ?」
思わず吹き出しつつそう答えながら、質問の内容はあっさり想像できた。
「当然娘さんも一緒にいるんだろうけど、元ダンナさんとエッチしたりしないの? 」
我慢できずに吹き出してしまった。セックスではなく、エッチと言うあたりが可愛らしい。
「しませんよー。アレがパンイチでうろちょろしてても欲情しませんし。元々結婚していた時もほとんどセックスレスでしたし。向こうも私じゃ欲情しないと思いますよ?」
いくらもうすぐ異動してしまうとはいえ、異性の上司に何て発言をしてるんだろうと思いながら、酒の席だし、いい加減かなり飲んでるしという言い訳が頭に浮かぶ。
「えー、夏乃ちゃんはとっても魅力的だと思うけどなぁ」
頬杖をつきながらこちらをみつめる平野を夏乃は、セクシーだと思ってしまった。あぁ、これはマズイと頭のどこかでアラームが鳴っている。
「またまたぁ」
「いやほんとに。今彼氏は?」
「いません」
「じゃあ、そういうことしたくなったらどうするの?」
「したくなったら、ですか?うーん、相手もいませんし、もうこのまま枯れていくだけだと思いますよ?」
まさか、スマホでエロ小説やら無料のエロ動画見て一人で処理しますとも言えず。
「えー、もったいないなぁ。これからが女盛りでしょうに。オレは男だからわからないけど、女性は40前後が一番したくなるし感度もいいって言わない?」
「そんなもんですかねぇ」
チャイナブルーのグラスに手を伸ばす。平野の視線が熱い。きっとまた耳まで真っ赤になっているんだろう。
「夏乃ちゃん可愛いし魅力的だから、周りの男が放っておかないでしょうに」
「可愛いとか魅力的なんて言われたことないです。むしろ、平野次長のほうが魅力的です。私、ストライクゾーンど真ん中ですよ」
ーあぁ、だから私は何てことを口走ってるんだ。
「あっ、でも襲いかかったりしないから安心してくださいっ」
失言に気づいて慌てる夏乃の手が、平野の厚みのある手のひらに包まれた。