第一話-10
(落ち着いて……。ドアさえ開けなければ大丈夫だから。)
動転しそうな気持ちを沈め、足音を殺してリビングから玄関モニターのあるキッチンへと向かった。
そっとモニターのスイッチを入れて、画面を凝視する。果たして、映し出されたのは寿明だった。
「お、お父さん!」
まるで、呪縛から解き放たれたように、史乃は玄関ドアへと駆けて行き、施錠を外すとドアを勢いよく開けた。
そこには、汗や油、埃で汚れた寿明が、バツの悪そうな顔で立っていた。
「史乃、すまん。遅れて……!」
寿明が言い訳しようとする前に、史乃は抱きついていた。
「待ってたのよ。ずっと……。」
「すまん……。」
嗚咽混じりの声──。寿明はそれ以上、何も言わず、黙って娘の頭を撫でるしかなかった。
緊張と不安がこれまで以上に高まった次の瞬間、一気に解放された事で抑えが利かなくなったのだろう。気付けば、幼子のように感情を爆発させ、寿明に縋(すが)り付いていた。
「それにしても、なあに、その格好?」
ようやく落ち着いた史乃は、寿明をまじまじと見つめ、半泣き半笑いの顔になった。
「帰る途中で、マラソンと力仕事を無理矢理やる羽目になって。本当にまいったよ。」
「なあに、それ。」
「それよりも、久しぶりだな、その格好。」
寿明の一言で、史乃の顔がパアッと華やぐ。
「覚えてて来れたの!お父さん。」
「当たり前じゃないか。史乃。」
寿明は、遠くを見る目で言葉を続けた。
「──初めてこの家を訪れた君が、その服を纏っている姿に、えらく緊張したのを覚えている。」
「お父さん……。」
「こんな素敵なお嬢さんが、本当に自分の娘なのか?って、自問自答したくらいさ。」
感動の再会を終え、二人はリビングに移動した。
ようやく、記念日の開始である。
「お父さん、先にお風呂に入って来て。その間にご飯、温め直すから。」
「ああ、でも……。時間が。」
時計は、記念日を五分ほど過ぎていた。
「気にしないで。記念日は今日だけじゃないし、それに、ちょっとくらい構やしないわ。」
「判った。じゃあ、ちょっと入って来るよ。」
「後で、着替え置いとくから。」
家の中に活気が戻ってきた。
お互いが、お互いの為を思って一生懸命になる。
寿明が喜ぶ顔を見たくて、好きな料理を作って花を飾り、思い出の服に着替えた。
史乃の喜ぶ姿を見たくて、慣れない距離を走り、慣れないタイヤ交換も行った。
何気ない日常の特別な日は、程なく過ぎようとしていた──。
「史乃」〜それから〜 第一話 第一章 願い 完