ゴカイノカイギシツ-3
「ウチの稲生を泣かせないでもらえますか?」
ルカが目を合わせないまま女子トイレに駆け込んだあと。寺島係長は普段からは想像もつかない低い声でそう言い放つと、脇をすり抜けて言った。
ーもしかして、見られた?
いや、もしかしなくても見たのだろう。コンタクトがずれたなんていうのは、ルカをかばったからで。あの肩の震えも、目を合わせないのもそう考えれば納得がいく。誤解だ、と叫んだところで取り返しはつかない。
「寺島係長が別人みたいに怖かったですぅ」
階段を降りていると、走ってきた佐瀬に手を捕まれた。
「触らないでくれ。これ以上つきまとうなら、セクハラで訴える」
大人げないとは思いつつ、容赦なくその手を振り払った。
「無理矢理キスされた。目撃者もいる。今日の会議のあと、支社長からも注意されて、仕事にも影響が出ている。穏便に済まそうと思ったけれど、これ以上は耐えられないし、迷惑だ。社内だけですまないようなら、警察でも民事訴訟でもなんでも行くぞ」
真っ青な顔をした佐瀬をその場に残し、階段を降りていく。そのままエレベーターに乗ってしまえばよかった。そもそも、佐瀬が喫煙所に入ってきた時点で吸い途中だろうがなんだろうが、意地でも2人きりになるのを避けるべきだった。でも、もう遅い。
戻ったところで、ルカのそばには寺島係長がいるだろう。あの様子じゃ落ち着いて話など出来ないだろうし、ここでするべき話でもない。帰ってから…そうだ。まだラインの返信はない。ルカは私服に着替えていたし、寺島係長も荷物を持っていた。あのまま2人でどこかに行くのだろうか。
寺島係長は愛妻家だと聞いたことがある。ルカはそんなところもお気に入りのようだったが、あんな場面を見せつけられて、傷心…だと信じたい…のところに、お気に入りの上司から優しい言葉をかけられて誘われたら、コロっといってしまうのではないだろうか。
そう考えたらいてもたってもいられなくなって、電話をかけてみたけれど、数コール後に聞こえてきたのは無情な機械音声だった。
ルカから連絡がないまま一晩が経ち。ルカのいない部屋は、色がない。クローゼットにはルカの服がいくつかかかっていて、洗面台にはルカが愛用している基礎化粧品なんかが並んでいるのに。
ラインは既読にならず、電話をかけてもコールすらせず、ダイレクトに留守電に接続されてしまう始末。
目を瞑れば、裸で睦み合うルカと寺島係長が映像化されてしまう。慌てて目を開き、頭を激しく振り、妄想を打ち消す。そんなことを繰り返しているうちに、一睡もできないまま朝は来た。
「おはようございま、ってどうしたんですか?課長、その顔」
出社してエレベーターに乗り込もうとすると、先客の木原に驚かれた。
「んー、腹の調子悪くて眠れなかった」
「えー?大丈夫ですか?」
「あんまり大丈夫じゃないけど、とりあえず部長には黙っといてくれよ」
「それはかまいませんけど、あんまり無理しないでくださいよ?」
木原は以前付き合っていたかなり年上の男性を突然亡くしたそうだ。過労死に近かったという。そのくらいの年齢のオヤジが弱っているのを見ると、つい声をかけずにはいられないのだと、いつだかの飲み会で苦笑気味に話してくれた。
むしろ飲み過ぎとか言った方が余計な心配をさせずにすんだかもしれない。昨日から後悔ばかりだ。
確かに出社前に鏡を見た時に、自分でも酷い顔だと思った。ルカはこの顔を見たら、どう思うのだろう。呆れ果てて、捨てられるだろうか。
いつもなら出社すれば顔を出す7階の喫煙所に、ルカは現れなかった。朝だけじゃなく、昼休みも、定時後も。寺島係長には喫煙所で一度会ったが、他に人がいて話しかけることができなかった。多分、寺島係長も何か言いたそうにしていたと思う。
同じ職場にいるとはいえ、部署が違えば1日顔を合わさないことなんて、何の不思議でもないはずで。どちらかが休みだったり、外に出たりすることだってあるのに。不安で仕方がない。週の大半をウチで暮らすようになった時も、しばらく会えなくて不安になったけれど、不安の度合いでいえばあの時以上だ。自業自得だと言われればそれまでだけど。
すっかり陽が延びて、19時を廻ったばかりの喫煙所の窓の外には夕陽の名残と群青のグラデーションが拡がっている。
『会いたい』
女々しいかと思ったが、相変わらず既読にならないルカのラインにそれだけ入れた。つくづく自分勝手だと思う。ルカが大変だった時にはまともに返信すらしなかったのは自分なのに。
溜め息をついて、重い腰をあげようとしたその時。聞き覚えのある足音が聞こえてきた。
「お疲れ様です」
声も表情も普段からは想像もできないくらい冷たく硬い。それでもその姿を見れただけでも、心の底からホッとした。
「お疲れ。昨日はすまなかった」
「いえ…」
何か言いたげな表情だったが、言葉を探すように辺りを見回して飲み込んだように見える。吸煙機の作動するモーター音だけが低く響く。一緒にいて、会話がないことだって今までもちろんあった。言い争うことだって、なかったわけじゃないけれど。今までで一番重い空気。
「…今日はもう上がる?」
「…はい」
「話がしたいんだけど、ダメか?」
こちらを見上げた顔は今にも泣き出しそうな、怯えた子供のよう。唇は少し動いたが、音にはならず俯いて静かに首を振った。
「さすがにここじゃまずいだろうし。どこか店でも構わない。ル…稲生さんさえよかったら、ウチでも…」
しばらくの間のあと、お邪魔します、と呟いた。
「買い物して帰るから、先に帰っててくれるか?」
力なくこくん、と頷いてくれたのを見届けて、じゃあ後で、と喫煙所を先に後にした。