ゴカイノカイギシツ-2
ー田中課長のお気に入り、か。気に入られてることには違いないと思いたいけれど。
「せっかく誘っていただいたのにすみません」
「じゃあ、また今度いこ?」
嫌だ、とはっきり言えない自分に腹が立つ。そうか、課長OKしたんだ。条件つきとはいえ、なんかショックだな。
他にもちらほら人が来て、女性も数名いたのに、佐瀬さんが声をかける様子はなかった。
『お疲れ。今日はこっち来るか?』
制服のポケットのスマホが短く振動して、そっと確認すると田中課長からのライン。週末は用があって自分の部屋に帰っていたし、一昨日の月曜も昨日も課長は出先から飲みに行ってしまって、やっぱり私は自分の部屋に帰った。
ーどうしてほしいの?
そう聞けたら、このもやもや感は収まるんだろうか。
ー今日は佐瀬さんと飲みに行くから、来るなってこと?
既読もつけず、返信もしないまま、ポケットに戻す。今日は残業を早めに切り上げて、買い物でもして電車に乗ろう。一人でゆっくり半身浴でもして。最近読んでない本でも読もう。
気持ちを切り替えて1時間ほど残業して切り上げる。来週の会議資料も早めに作っておかなければと思いつつ、会議に出た分日常業務に追われてしまい、手をつけられなかった。会議を思い出したら再びもやもやした気分に襲われた。残ってやったところで、こんな気持ちでいい仕事が出来るはずがない。弱い、と言われてしまえばそれまでだけど。これが社内恋愛の弊害なんだろうか。
ーそもそも、この関係って恋愛なの?
大事にはされてると思う。愛されてるなって感じることもある。でも、不安になる。家事をしてくれるから、置いてくれているだけなんじゃないか、とか。平日はお互いに疲れきっていて、セックスはほとんどしないけれど、抱き枕代わりなんじゃないか、とか。本当は飲みに行ったんじゃなくて、今頃ベッドの上で抱き合ってるんじゃないか、とか。それもラブホとかじゃなくて、あの部屋であの豊満な胸に顔を埋めてるんじゃないか、とか。
「稲生さん、女性にこんなこというの失礼かもしれないけど、顔色悪くない?大丈夫?」
いつの間にか帰り支度する手が止まっていたらしい。寺島係長の声で我に返った。
「すみません、夕飯何にしようか考えてて、ボーっとしちゃいました」
どこか信じてなさそうだけれど、優しい笑顔で
「たまには飯でも食べて帰る?今日の会議のお疲れ様会ってことで」
なんて言われて、気がついたら頷いていた。
「とりあえず一服しながら、店決めよっか」
着替えておいで、と促されロッカーに向かう。スマホはあえて開かないことにした。これで佐瀬さんと飲みにいくなんてラインが入ってたら、恐ろしく凹みそうで。
更衣室を出ると、エレベーターホールで待ってくれていた寺島係長と7階に上がる。
「さて。何が食べたい?ステーキでも寿司でもフレンチのコースでも居酒屋でもオジサンがご馳走しますよ」
おどけて話す係長につられて、ついこちらも笑顔になる。
「そんな。お疲れ様会なら割り勘にしましょうよ」
「いやいや。たまにはオジサンに、格好つけさせて上司らしいことさせてよ」
「そんなこと言われたらお言葉に甘えちゃいますよ?私、結構食べるし飲みますよー?」
「うん。稲生さんの食べっぷりも飲みっぷりも好きだよ。なんでも美味しそうに食べるよね。で、何にする?」
「お寿司もいいけど、居酒屋がいいです」
パーっとアルコール消毒して、時間によっては寺島係長と別れてから、一人でビジネスホテルに泊まったっていい。お泊まりセットはいまだにロッカーに常備してあるし。
「お、いいね。魚が旨い系と肉が旨い系、どっち…」
喫煙所の手前で突然寺島係長が立ち止まって口をつぐんだ。視線の先を追うと、喫煙所の中には田中課長と、佐瀬さんがいて。佐瀬さんは田中課長に抱きついていて。
…キスをしていた。
「…見なかったことにしよっか。え?稲生さん?どうした?」
「あ…すみません。お子ちゃまには刺激が強すぎたみたいでビックリして」
ポロポロポロっと、ふいにこぼれだした涙を止めることが出来ず、慌ててくだらない理由で誤魔化そうとしたけれど。
「今は何も言わなくていいよ。これ使って。ちゃんと洗ってあるしアイロンもかけてあるし、使ってないから大丈夫だよ」
寺島係長が差し出してくれたハンカチをありがたく受け取って、目頭を押さえる。
「加齢臭したらごめん」
「そんなことないです。すみません、汚しちゃって。洗ってお返しします」
気遣いの自虐ネタに思わず涙も止まった。
「る…稲生さん、どうした?」
ー自分は他の女とキスしてたくせに、どうした?って聞くの?
自分でも肩が震えたのがわかった。
「ちょっとコンタクトずれちゃったみたいで。待ってるから鏡見ておいでよ」
寺島係長はきっと、全てわかってしまったと思う。すみませんと断って、女子トイレに駆け込んだ。
余りお待たせするのは申し訳ないけれど、今出ていって、田中課長や佐瀬さんと顔をあわせるのも嫌で。個室に隠れて少しだけ泣いた。寺島係長が貸してくれたハンカチは、もちろん加齢臭なんてしなくって、優しい柔軟剤の香りに癒される。
賑やかな佐瀬さんの声が遠ざかるのを待って、個室から出た。手早く崩れたメイクを直す。もともとあんまり濃かったり手がかかるようなメイクが好きじゃなくてよかったと思う。佐瀬さんのあのばっちりメイクだったら、課長のシャツにファンデーションやらなんやらついて…今は考えるのを止めよう。