A-7
午後七時四十分──。最寄りの駅に降り立った俺は、店まで十分ほどの往路を歩いた。吉川のおかげで生じた時間的余裕は、シャワーと着替えに費やす事が出来た。
今日、選んだ店は、行き付けのトスカーナだ。
小洒落た雰囲気を有し、尚且つ、値段も手頃で、ラスト・オーダーが十時という点が、主な理由の一つなのだが、最も大きな要因は、女性同伴に相応しい店を、ここ以外に知らない点にある。
(女性と言っても、最後に連れて来たのは亜紀だったが。)
そう思った途端、口の中が苦くなった。
(情けねえ男だよ。)
姉への偏愛を脱却する一歩目を目前に控えてるというのに、尚、亜紀との過去を振り返り、思い出を呼び戻してしまうなんて。
世の大半の男は、マザコンだとする定説が有り、その性質を、女性が最も嫌っていると聞き及んでいるが、もしも、俺の異常な性質を長岡が知ったら、マザコンどころの嫌悪では済まないだろう。
(いかんな。物事を、悲観的にばかり捉えてしまう。)
俺は、店までの距離を走り出す──。思考を排除するには、昔から体を動かす事が最も効果的だったから。
高校の練習試合で負けた時、監督から学校までの距離、約二十キロを走って帰るよう命じられ、「その間、今日の反省点を考えろ。」と、言われたが、暑さと怠さ、そして、この屈辱的な体罰が早く終われと祈るばかりで、考える余裕なんて何処にもなかったのを覚えている。
これから楽しむのに、悲観的な思考は必要ない。俺は、通りを行く人々の横を縫うように、走り抜けていった。
「なんだ……。もう来てるのか。」
トスカーナに到着すると、既に、長岡の姿があった。
「す、すまない!待たせてしまって。」
席に着くなり、俺は彼女に頭を下げた。
未だ、予定の八時より前だったが、誘ったのは俺の方であり、彼女は待っていたのだから。
「遅いよ!和哉。」
長岡は不機嫌そうな声でそう言うと、一転、顔を綻ばせる。魅力的な笑顔が、俺の緊張を解きほぐした。
「すまなかった。でも、何だか新鮮だな。久々にそう呼ばれると。」
「よかった!本当はドキドキしてたのよ。怒り出すんじゃないかって。」
「いや。むしろ、嬉しい位だ。あの頃と同じ呼び方を聞いて。」
野球チームはライバル同士だが、別々のクラスながら小学校は同じ。自然と友達になったと言うよりも、彼女が一方的に俺を呼び捨てにしていたのだが。
「──もっとも、十八年も経って気付かない位、俺の記憶力は曖昧だが。」
「仕方ないわよ。あの頃は髪も短かったし、年中、日焼けして真っ黒だったし。」
「そうだな。先ずは、再会を祝して乾杯といこう。」
俺はウェイターを呼び、料理と酒を頼んだ。
食事はなかなか豪勢だった。
先ず、塩漬け肉と季節野菜のアンティパスタ。次に果物の冷製スープ。魚介のパスタにアクア・パッツァ。そしてメインの肉料理と、どれも今まで以上の味に感じられた。
久々のトスカーナだった事もそうだろうが、何より、長岡との会話が料理の味を引き立てていた。
「──あんた達が、影で私の事を“デカ山”って呼んでたのを思い出したわ!」
「そうだったな。あの頃は、ウチのチームの男子全員、君より背が低かったから。
野球で敵わない上に身長でも女子に負けてる事実を、素直に受け入れられなかったんだよ。」
「私、けっこう傷付いてたのよ。」
そう言って、ケラケラと笑う彼女を見る内に、俺の中でズレていた長岡莉穂と飯山莉穂のピントが、ようやく一つになっていった。