君と僕との狂騒曲-21
最初に来たのは「おたふく風邪」だった。妹にうつされたものだ。中学校二年生の「おたふく風邪」はかなりきつい。顎が動かなくて、食事もろくろく採ることが出来ない。
収まってきたな、と思ったら今度はインフルエンザに罹った。さすがに危なくなってきたので母親に保険証と治療代を出して貰って、教会のそばにある内科医院を目指して歩いた。いや、歩くはずだった。まるまる二週間をベッドで過ごした僕は凄い目眩で廊下に倒れ込んだ。
陽炎で歪む猛暑の中、わずか1kmの病院がどんなに遠かったことか。
血と尿をとられて、すぐに大量の点滴を打たれた僕は脱水状態と過呼吸で、筋肉注射を打たれ、安定剤を投与された。血圧が異常に低いという看護婦の声を聞きながら、僕は意識を失った。
急遽市立病院に移された僕を待っていたのは、院内感染による新たな風邪だった。体力は枯渇していたので、自己修復が出来ない僕は再びスパゲッティ状態。レントゲン検査でわかったことは、ごく軽い肺炎を起こしていたこと。
ベッドに横になっているのに、天井が廻った。空から地上に落下するような感じ。メニエール症候群みたいに、どこが上か下かわからなかった。このまま死ねたら、もしかして幸福かな、なんて本気で考えた。もしかして、そうなったら君は泣いてくれるだろうか。そうだったら、嬉しいな。
考えてみると、僕の両親はかなり酷いものだった。息子なんて、自分じゃないから。他人には「本当に心配で」とか言っていたのだろうか。
勉強したこと。酸素はすごく美味しい。
*
ぼんやりと、君の表情が浮かんだ。そうか、僕は君に会いたかったんだな、って悲しくなった。あのボンクラどもをなんとかしなくちゃ。なあ、マキ。
でも、ベッドの横に座っているのは、心配そうな顔をして僕をのぞき込む本物の君だった。僕はとっさに起きあがろうとして、君の腕に止められた。
「だいじょうぶか?ケンピ」彼は僕の胸をしきりにさすりながら言った。病院のパジャマの上を撫でさするとても冷たい手と指。君は何故かいつも手が冷たかったっけ。
君は笑った。そして左手で僕の髪の毛をくしけずった。僕は慌てた。もう三週間も風呂に入っていないのだから、こんな身体を触っちゃいけない。髪の毛なんかコールタールでリンスしたような状態だ。でも君は僕の胸と髪の毛を、丁重にさすり続けた。
「キャンプは」僕の口から出た言葉は馬鹿馬鹿しいほど普通だった。
「みんな、ちゃんと働いたか」
君は僕が今まで一度も見たことのない、素晴らしい笑顔を見せてくれた。白い清潔なカーテンを背にした君は、両目が三日月のようにとろけて、美しい真っ白な歯を見せていた。声の聞こえない爆笑。そんなものがこの世にあるなんて知らなかったよ。
「ああ、ケンピが居ないんだもの。飯を食うためにみんな必死だったよ。僕も含めてね。まあ、ケンピがどんなに大変だったのかは、身にしみたよ」
君は立ち上がり、小さなブリキの四角い缶を机の上に置いた。
「うちの姉貴が作ったクッキー。いろんなドライフルーツが入っていて、結構いける」
君は僕の手を思いっきり叩いた。
「また、一緒にキャンプ、行こうな。時間なんて、いくらでもあるから」
君がボーイスカウトの服装をしていることに、いま気が付いた。美しいカーキ色のシャツと緑と黄色のネッカチーフ。そして聖なる十字架のマーク。君はキャンプの後かたづけをしたあと、そのまま病院に来たのだ。
「それに多分、人生には締め切りがあるって言ったのはケンピだぜ」
君は手を振って部屋から出ていった。耳の中に流れ込んで来る不快な液体の正体は熱い涙だった。
考えてみると、ここしばらく、君の瞳を真っ直ぐに見ることが出来なかったな。
気軽にスカウトハウスに行って、馬鹿な話もしていなかったな。
図書館に行って大嘘をついて君を騙すのもしばらくやっていなかったな。
僕は上掛けを頭の上まで引っ張り上げ、いくらか薄暗い布団の中で僕は声を押し殺して泣き続けた。心配するのは僕のはずだったのに。
*
やがて秋が訪れ、道ばたにいつもの銀杏の黄色い葉が舞い降りて風が快い季節になった。夏の終わりには僕が退院して、僕は君と僕との幸福な時間を共有することが出来た。僕は相変わらず本を読んで、ギターを弾き、学校の美術室でデッサンと油絵を描いていた。僕は美術部には在籍していたが、特になにをしていたのではない。学校は結構暇だ。