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愛情トランシェンス
【サイコ その他小説】

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愛情トランシェンス-1

 その昔……といってもほんの数年前だけど、誰かがこんな事を言っていた記憶がある。
 真っ白い部屋に机が一つ、小さめの小洒落た白いレースのテーブルクロスが掛けられている。それを挟んで向かい合う形で並べられている独り掛けのソファ。そのパステルグリーンのクッションの上に私が静かに腰を下ろすと、柔らかくも固くもなく、冷たくも温かくもない温もりがそっと背後から優しく抱き止める。
 もう一方のソファに座っている誰かの顔は、逆光で黒い影しか見えない。その人の背中にある大きな窓から差し込む白い光のコントラスト。浅くソファに腰を掛け、膝に肘を置いて緩く組んだ両手で口許を隠しているその人から、私はただただ漠然とした根拠の無い穏やかな視線を感じた。
 その人は改めて座り直して、静かにその口を開く。発せられた言葉はとても明瞭で澄んでいて、そこでようやく私はその人が大人の男性であると気付いた。淡々としながらも柔和で、そしてとても真摯な彼の言葉は、真っ白い部屋の空気を殆んど揺らさずに私へと届く。

『人として、やってはいけない事が三つある。一つは、他人を傷つけること。二つ目は、物を壊すこと。そして三つ目は、自分自身を傷つけることなんだよ』

 当時の私は、その意味が理解出来ずに、ただ適当な相槌を打ちながら視線だけ明後日の方角を探していた気がする。現実か、あるいは夢なのか。夢にしたらやけにリアリティ溢れる夢だなと、時々ふとこの事を思い出す。それは大抵、自分の左腕をがむしゃらに切り刻んだ後だった。


 初夏とはいえ、まだ肌寒いこの時期。湿気が多いといえばいいのか……暑さと寒さの明確な違いにさえ戸惑いを覚える時がある。こういう時のデートは正直にいって、苦手だ。服選びに迷う。春服と夏服の中間服を売っている店がもしもあるならば、是非とも私に教えて欲しい。そう思いながら青いTシャツの上に黒いワンピースを着た。昨晩の記憶はかなり曖昧なのだが、ゴミ箱は茶褐色のティッシュペーパーで溢れ返り、左の手首から肘までの間には数えるのが面倒になる程の剃刀跡が赤黒くはっきりと残っていた。
 これを見たらまた光弘は激昂するんだろうなぁ……と、何気無く考えて手に持っていた七部袖のパーカーからネイビーのカジュアルなジャケットへと返る。このジャケットなら袖が手の平半ばまであるから、見つかる事はまずないだろう。
 光弘は私が自傷をすると怒る。散々怒鳴り、叫び散らして外へ飛び出す。しばらくすると肩を落としてすごすごと戻ってきて、そして泣きそうな声で言うのだ。ただ一言、「ごめん」と。そこに残るのは私の一方的な優越感でも光弘の罪悪感でも何もない。どちらからかと言葉を発する事も無く、ただ流れていくぎこちない空気。そして私たちはその現実から目を背けるように互いに貪るように抱き合って眠る。光弘はその時に必ず、私の左腕に刻まれた傷跡のひとつひとつに触れるだけの軽い口付けをした。「自分は愛されている」のだとその都度私は再認識して、喉奥に酷い熱を持つ。
 そうこうしている間に、ピンポーンとインターフォンが鳴った。続け様にコツコツコツと微かに響く三回のノック。そして、静寂。
 私は着替えも化粧も済ませ(元々化粧類は好きではないのだが)バッグに携帯と財布を押し込んで玄関のドアを開ける。大型犬のような影と、黄色がかった八重歯を口から覗かせた明るい笑顔が青空を背に背負って立っている。

「グッドモーニン! 美雪」

 もう十三時を回った時計。相変わらずのハイテンションだなと私は眉尻を下げて微笑む。今日のデートは、光弘からの提案だった。二人揃いのグラスが欲しいと、三日だか四日だか前に突然騒ぎ出したのだ。きっとこいつの事だから、何かの漫画かドラマの影響でも受けたんだろう。断る理由も特に無かったしその時は自分もあっさりと了承したのだが、さていざ当日になってみると、どうにも気分が乗らない。昨晩一体何があって私は剃刀を手にしたのだろう。そんな疑問が背後から付き纏い、どうしても落ち着かないのだ。切り刻んだあの後、ビールで睡眠薬を十数錠飲み干した。それは覚えている。どうにでもなれば良かった。いっその事そのまま死にたかった。そんな事を考えていたのも、薄らぼんやりと覚えてはいる。そんな自業自得の所為もあってか、記憶は殆んど皆無に等しくてついつい失笑する。"嫌な出来事は忘れる"人間の脳味噌は本当に、なんてハイテクに出来ているんだろう。


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