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愛情トランシェンス
【サイコ その他小説】

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愛情トランシェンス-3

「美雪、大丈夫か?」
「うん、ちょっと冷たいだけ」
「ったく、親も気ィつけろよな」
「寄り道しないで、今日は帰るね」

 愚痴には何も答えずに一方的に会話を終わらせる。二人で黙々と、私のマンションへ向かって歩いた。玄関の前で、私は彼の前に立つ。

「……今日は、ありがと。それじゃあ……」
「コップ、見ないのか?」

 あぁ、そんなものもあったっけかと、思い出すまでに暫し時間を要した。此処で首を縦に振ったらと、その後を想像して溜息が出た。

「……散らかってるよ」

 呟くよりも小さな声が、彼に届いたのかは知らない。私は背を向けドアの鍵を開ける。後に続いてくる大きな足音は、「こっちいるから」と短く告げてキッチンへと入る。キッチンといっても部屋とは何の境も無いのだがとにかく彼は私に背を向けて、早速買ってきたばかりのコップを開いているようだった。代わりに着れるものはないかと箪笥を漁って、仕方なく部屋着だがパーカーを軽く羽織った。幸い、ジャケット以外に被害は無かった。
 キッチンに入ると、窓際に軽く水洗いされたペアグラスが二つ、水滴が夕日を反射して眩しく輝いていた。少しだけ、綺麗だと思った。
 黙って二人並んでそれを眺めていたら、突然光弘が口を開いた。

「美雪……お前、また切っただろ」

 言葉の意味が理解出来ずに私は瞬きさえ忘れ固まる。散らかった部屋――ゴミ箱から溢れ返る茶褐色のティッシュペーパー、飲み捨てたビールの空き缶、血がこびり付いたシンクと剃刀……何もかもが家を出る前と変わっていない。私が何も言えないでいると光弘は、私の喉頚をガッと強い力で締め付けてそのままキッチンの壁に押し付ける。後頭部に走る鈍い痛み。麻痺した思考回路は『抵抗する』という言葉を忘れてか、私はまるで人形のようにされるがままにパーカーを奪われた。晒しだされる、鮮明な傷跡。自分で勝手に抜糸した古傷、茶色く薄くなった過去、全てが夕日に照らされて光弘の黒い瞳に映る。

「もう切ったりしねぇって前約束しただろうが!」

 糸が切れたかのように、先程の笑顔からは想像もつかない怒声が響く。
 それに対する私の反応は、何故だか自分でも酷い程に淡白で、勝手に唇が紡ぐ言葉は普段よりずっと、ずっと多かった。

「……ごめんね。破っちゃった」
「破っちゃったーじゃねぇだろうが! もう何回目になんだよ」
「わかんない」
「ふざけんな! テメェ、好い加減にしろよ、もう二度と切るな!」
「あぁ……多分、無理だよ」
「次また切ったらもう別れるからな!」
「そう言って、あんたにあたしの自由を奪う権利でもあんの?」

 その途端私の喉頚は解放され、ガクンと膝が折れ座り込む。頭上で鳴った派手な透明な音、私に降り注ぐ粉々になったガラスの破片。そのまま光弘は私の家から飛び出していった。たぶん、いやきっと、もう二度と帰って来る事はないだろう。
 ガラスの破片を浴びて私は残った窓際にぽつりと残されたピンクのコップと同じ様に夕日を反射してきらきらと光った。左の腕の傷が開いて、血がまた少し滲み出た。形ある物はいつか壊れる。久しくとどまるためしなし……か。夕闇と静寂が静かに辺りに満ちる。

「ふ、ふふっ、ははっ、はははははは、アハハハハハハハハハハハハハハっ」

 私は天井を見上げて両手で顔を隠してながら、大きな声を上げてその日、初めて心から笑った。


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