忘れ物-2
友里の告げた企業名は、音楽に特に興味のない人でも絶対に知っているものだった。いや、世界的にさえ知られている。
「惚れられちゃった?」
「ええ。」
「断り切れなかったんだ。」
「付き合わないと、一生音楽が出来なくするぞ、って。」
「最悪。」
「はい。でも、理由はそれだけじゃ…。」
「何?」
「あ…いえ、それは…。」
友里はちょっと慌てている。
「ごめん、立ち入ったこと訊いて。」
「いいんです。」
友里は俯いて床を見つめている。
「SNSのサークルで知り合った大学生でした。」
「旦那さん?」
「いえ、彼とはバイトしてたお店で。」
「バイトに手を出したオーナー一族。」
友里は苦笑いした。
「まあ、そうですね。」
「じゃあ、大学生というのは?」
「…オフ会の後、部屋に誘われたんです。興味本位で着いて行って…それが初めてでした。」
「…。」
「つまらない話ですよね。」
「いや、あの可愛らしい須藤さんが、って、ちょっとショックだったりしただけだよ。大人のオンナになれば当り前のことなのに。」
「そう…ですね。」
「うん。」
「そのあと、何人かの人となんとなくお付き合いのようなものをしました。なんか、どうでもよくなってたんです。恋愛なんて。だから彼の誘いに乗って結婚してしまいました。それに。」
ちょっと恥ずかしそうに彼女は目をそらした。
「オンナですから、私も。カラダがそれを求めてしまう時はあるんです。」
友里は無理に笑顔を張り付け、うーん、と伸びをしながら言った。
「あーあ、もっとまじめに恋愛すればよかったなー。そうすればもっと…もっと後悔しなかったかもしれないのに。もっとましな気分でいられたかも…しれないのに。」
最後の方は消え入るような声になっていた。
「寂しいこと言うなよ、と言いたいところだけど…僕もなんだかそんな感じだった。浪人してるときによく行っていた図書館の司書のお姉さんが初めて。一回りぐらい上だった。誘われてなんとなく、ね。須藤さんと同じく、オンナへの興味も普通にあったし。」
「あ、もしかして、小さなコンサートホール併設の?」
「それ。」
「私、その人知ってるかも。」
「うわ…。」
「サラっとした内巻きセミロングの黒髪に丸い銀縁眼鏡の…」
「やめてくれー!それビンゴ。」
「ご、ごめんなさい。」
「いや。こっちがヒント出しすぎたのが悪いんだし。はは。」
「狭い世界でしたものね、この町。」
「そうだね。」
僕は上を向いて、フ、と息を吐きだした。
「それからは、大学で三人、会社で二人。それ以外で三人。ぜんぶ歳上。」
「モテすぎじゃないですか。ていうか、歳下はそういう対象じゃないんですか、先輩にとって。」
「いや、来るんだよ、上ばっかり。特に断る理由もないから付き合った。それだけ。それに…。」
友里は僕をじっと見つめている。
「歳下はなんとなく手を出しちゃいけないように思えてさ。理由は分からないんだけど。それから、僕も一回結婚してた。してよ、って強引に話を進められて。もちろん、歳上さ。あはは。」
「…。」
友里は下唇を噛んで俯いた。
「…先輩。」
「ん?」
彼女が突然顔を上げた。
「あの時、どうして手を振り返してくれなかったのか訊いてもいいですか。」
僕はゆっくりと頷き、友里の隣に座った。
「もちろんだよ。その話をしたくて二人きりになったんだから。でも…この通りさ。」
「ええ。」
二人は苦笑いを浮かべ、僕は順を追って話を始めた。
「あの前の日、音楽室の前で声をかけたの、覚えてる?」
「ええ、覚えてますとも。忘れられるはずがありません。」
「だろうね。須藤さんのあんな表情、見たの初めてだった。マンガみたいに顔ひきつってたもん。よっぽど困ったんだね。」
「困った…。そう、そうです。」
「今思えば、僕が代わりに行けばよかったのかもしれない。おい、告ってもムダだぞ、須藤さん、顔ひきつってたぞ、ってね。」
「…。」
「え…、何か悪いこと言っちゃった?」
フルフル、っと友里は黙って首を振った。
「?」
友里は目を伏せたまま、呟くように言った。
「…先輩に声かけられたとき、私どんな顔をしてました?」
「いつも通りの素敵な笑顔…いや、いつも以上だった、かな。なんか、期待に輝いた、みたいな。」
彼女は微笑んで僕を見た。
「でしょ?あの時私、本当にうれしかったんですよ。二人っきりの所で、ちょっといいかな、なんて声をかけられたから。なのにその後。」
「あいつが告りたいって言ってるから、行ってやって、って、言ったよ?」
「そして私は顔をひきつらせながら指定された場所に行きました。」
「うん。」
「結果、聞きました?」
「聞くまでもないよ、あの表情で行ったんだもん。」
ふいに友里が立ち上がり、まっすぐに前を向いたまま数歩進んで止まった。
「先輩。先輩はあの頃私の事をどう思ってたんですか?」
「え?可愛い後輩、だよ。」
「その可愛い、っていうのに、付き合うという選択肢は含まれていましたか?」
ふう、っとひとつ息をついてから僕は答えた。
「無かったよ。」
「ですよね。私なんか、そういう対象には…」
「逆。須藤さん可愛すぎて、自分の恋愛対象になんか見れなかったよ。」
友里がバッと振り返った。
「なんですか、それ。はっきり否定して下さいよ。」
しっかりと目を合わせ、ゆっくりと話した。
「僕はいいかげんな奴だが嘘つきじゃない。」
「…ごめんなさい。」
「いや、いいんだ。」