時間-3
(3)
食事は個室の食事処である。部屋食はゆっくりするが、仲居の出入りが少々煩わしい。
話が弾み、楽しい食事となった。
「葛西君。言っておくけど、かかったお金は割り勘よ。誘ったのはあたしだからぜんぶ持ちたいけど、それじゃいやでしょ?」
「俺に持たせてよ。そのつもりなんだから。京子ちゃんと旅行できただけで満足なんだから。夢みたいなんだ」
「だめです、そんな嘘言ってもだめ」
「嘘じゃない。ずっと憧れだったんだ」
つい気持ちが入って力がこもった。
京子は伏せ目になって、言葉を飲み込んだようだった。
沈黙が流れたが、決して気まずいものではなかった。
「初恋だったということかな……」
しばらくして、
「ありがとう……」
京子のやわらかな微笑みが私に届いた。
「俺、嫌なこと言っちゃったかな」
「ううん、そんなことない……」
ビールを一口飲み、
「嬉しいものよ。子供の頃のことでも……」
「葛西君、憶えているかなあ、上履きのこと」
突然、話し始めた。
(上履き……)
その言葉に、私は内心動揺していた。
「6年の時よ」
「6年……上履き……」
「あたしの上履き、触ってたでしょ」
あれは何かの委員会で遅くなった時だ。たまたま下駄箱の前で京子と一緒になった。
「さようなら」
「さようなら……」
素っ気なく京子が去ったあと、私は不意に気持ちが落ち着かなくなった。彼女が履いていたいた上靴に釘付けになっていた。
周りには誰もいない。とっさに手に取った。まだ生温かさが残っている。高鳴る動悸。
(京子ちゃん)
わずかな時間だった。ほんの一瞬、においを嗅いだ。元に戻して走って帰った。
「あたし、忘れ物をして、すぐに戻ったの……そしたら……」
木の陰に隠れていたという。
「参ったな……」
「憶えてるんだ」
京子は笑う。
「変態って思っただろうな」
「そんなことないわ。いやらしいって思わなかったの」
「そうかな」
「ほんとにそうなのよ。何だかどきどきした憶えがある」
不思議な感情が走ったという。体の中が熱くなり、それはすぐに消え去ったが、自分に好意を持ってくれていることは残っていて、いまでも忘れずに心にある。
「子どもだから、何か言うこともできないしね……」
「そうか……見られてたんだ……。恥ずかしいな」
「最近、昔のこと、よく思い出すんだ。小中高、大学。若い頃に戻れたらなあって」
過ぎ去った若さを取り戻せたら……。しがみつくように想いが募る夜があった。
「もし戻れるとしたら、いつの頃がいい?」
私が訊くと、京子は考える風を見せて、静かに答えた。
「戻りたいと思わない」
「今が一番いい?」
「そう……。一番とか、順番はないけど、今しかないから……」
「それはそうだけど、もしも、仮にの話だよ」
「仮にって、淋しくない?無くなったものを思い浮かべても実感がないわ」
思い出はたくさんある。だが、そこに近づこうとしても心が歪む気がする。京子はそう言った。
「現実主義?」
「そうじゃないけど、あたし、これからを満たしたいの。はっきり感じることが出来るこれからを……」
あと何年生きるのか、わからない。しかし、60年生きてきたことから抽出した様々なものを糧を今後に生かしたい。短い時間を生きていきたい。訥々と語った。
「何だか楽しくない話になっちゃって、ごめんなさい」
「いや、いいよ。いい話だよ……」
「自分勝手なのかもしれないわね……」
時間の受け止め方が違うのだろう。60年という長い時間。私は過去へと遡ろうとしている。老いてゆく自分を見つめながら、現実を抗っている。意味のないことなのだが、衰えを認めながら逃避したい悲しい私が悄然と立ち尽くしていた。
京子はどうなのだろう。同じ60年、どのように受け止めているのだろう。
(これからを満たしたい……)
それは楽観的なのではなく、やはり現実の手綱を握っているということなのか。
「あたし、わがままだからね」
京子は口を尖らせて威張ったように顎を上げた。
「いろいろ言うけど、許してね。付き合って」
「こちらこそ……」
「なあに、その言い方」
また大きな前歯が覗いた。
(そうだ、陰でリスって呼んでたな……)
京子の言葉が後戻りしてくる。
『あたし、わがまま』……『付き合って』……。
どういう意味を含んでいるのだろう。
「そろそろ二次会にしますか?」
京子はあくまでも明るい。
「いい料理だったね。ありがとう」
部屋を出る。京子が私に腕を絡ませてきた。
「今夜は恋人かな。あたし、わがまま」
横目にいたずらっぽく笑った。
「上履きの恋人」
京子は声を出して笑った。