時間-2
(2)
TK温泉は古い温泉地である。歓楽的要素も備え、一頃は団体客で賑わったようである。
一時の隆昌は過ぎ去ったとはいえ、知られた温泉地だからいまでも観光客は安定して訪れている。旅館、ホテルも多く営業を続けている。その中でも老舗のホテルを予約した。
「VIPだね」
玄関前に車をつけると和服姿の仲居が並んで出迎える。係の男が、
「お車を駐車場にお回しします」
仲居は私たちのバッグを引き取り、フロントへ。
京子の耳元へ囁いた。
「レンタカーじゃ恥ずかしいな」
「ふふ……」
温泉ホテルとしては格式も高い。過去に皇室も利用しているという。著名人も数多く宿泊している。
「特別室じゃないけどね」
「十分よ。広くてゆったりする」
10畳の和室、寝室はベッド、他にこたつをしつらえた和室。そしてヒノキの内風呂がついていた。
「いい香りよ。葛西君」
京子の後ろから覗くとたしかに仄かに香る。浴室も贅沢なほど広い。
「ほんとだ……。いいにおい……」
ヒノキより、私は京子のうなじを見つめていた。
細いうなじに白髪のほつれ毛。……
(60歳なんだ……)
改めて思った。だが、京子は若いと思う。髪も染めてはいないようだし、なにより細身の体が年齢より若く見せている。
こたつの部屋に京子がお茶を淹れ、向き合って座った。
「あったかい」
東京ではまだ暖房は使っていない。
「大浴場は1階だっけ?」
「うん。少し休んだら行ってこようかな」
「ヒノキもいいけど、広いほうがいいね」
「内風呂は寝る前に入ろうよ」
「うん……」
『一緒に……』ということだろうか。そんなふうにも取れる。
さきほど、さりげなく仲居に心づけを渡した仕草……交わす会話……2人を包む自然な空気感……。
(夫婦みたいだな……)
状況を考えたら高まりが先立ってもおかしくないはずだが、妙な落ち着きがある。
(齢ということか……)
秘めた期待はある。『男』はまだ機能する。
「お先にいただいたわ」
風呂から戻った京子と入れ違いに部屋を出た。艶やかな浴衣姿に密かなときめきが生まれた。風呂上がりの匂いが香った。
結婚前、交際中の妻と伊豆の温泉に行ったことがあった。互いに求め合って濡れ続けたものだった。若いというだけでなく『秘密の旅行』に昂奮したのである。当時は倫理的にも社会通念としても婚前旅行を公然と認める風潮ではなかった。
(2人とも、昂奮したな……)
妻が初めて達したのはこの時だった。……
感激……昂奮……。今でも忘れてはいない。だが、60を迎えて、京子といることの高まりはまったく質のちがうものだった。単に相手による新鮮味ともちがう、奥の深い感覚を覚えていた。
部屋に戻ると京子が広縁の椅子に掛けて庭を眺めていた。浴衣姿が日本庭園に重なり、一幅の絵のように見えた。
「ビール飲まない?」
京子が立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
「お風呂上りの1杯」
笑った口元の前歯が白く、大きい。だから笑顔が弾けて見えるのかもしれない。
(変わらないな……)
「お疲れ様」
旨そうに飲み、大きく息をついた。
「温泉入って、食事前のひと時って、いいわよね」
「うん。ゆったりした気分で。旅行はよく行くの?」
「たまに行くけど。……1人旅って、あまり楽しくないな」
「1人旅なんだ」
「独り身ですから。ふふ……」
「友達とは?」
「友達と行くと、気を遣うわね。……でも、1人旅は家に帰って何となく疲れを感じて、行かなきゃよかったって思っちゃう」
両親はすでに他界し、一人暮らしだと言った。
「兄がいるんだけど、あたしが家を継いだの。ずっと親をみてたから」
「俺はたまに1人旅に出たいって思うな。気楽に、自由に。1度行ったけど、よかったなあ」
「それは家族がいるからよ。誰もいない家に帰ってくると虚しいものよ」
(そうかもしれない……)
京子が私のグラスにビールを注いだ。
「悪かったかしら……」
「何が?」
「今日、誘って……」
「そんなことないよ。嬉しいし、楽しい」
「でも、ご家族があるんだもんね。葛西君」
(関係ない……)
とは、口にしなかった。
「あたし、1度結婚してるの。35の時。……」
どちらに非があったわけでもなく、いつの間にか日常が重くなっていた。5年で別れた。
以来、
「それからずっと1人……」
「相手はいくらでもいたんじゃない?美人だから」
「何言ってるの。……その頃、父の具合が悪くなって、いろいろあって……」
以後、何かを辿るように京子の視線は虚ろに漂った。
「もう1本飲む?」
「もうすぐ食事だから」
「じゃ、その時に」
「いっぱい飲みましょう」
京子の微笑みに私も合わせた。