マリア-20
翌日祐司はパソコンで1枚のビラを作った。『以下の者、この事務所へ出入りすることをお断りします』と書いて、その下に5人程の名前を連ねた。これを少し大きめの活字でプリント・アウトして事務所のドアに貼り出したが、山本一郎以外の名前は全部架空のものである。1人だけを対象にするよりも多少は山本が受けるショックが和らぐだろうという配慮だが、本当はそんな配慮をしたくは無かった。山本は連日のように暇つぶしに来ていたから、ビラを張り出した当日にもやってきた。ドアのビラを剥がして入ってきた。
「社長。これは一体何ですか」
「剥がしたりしては困りますね。それはそこに書いてあるとおりの意味です」
「何で私が出入りお断りなんです?」
「さあ。理由は会長に聞いて下さい」
「糞爺が、ふざけやがって」
「仕方無いですね。此処は会長の事務所なんだから会長が好きにする権利がある訳で」
「それじゃ爺がいない時はいいんだろ?」
「それは困りますね。僕も会長から給料貰ってる立場ですから」
「だってあんたが言わなきゃ分からないじゃないか」
「そういう問題では無いんです。会長に分からなきゃ何やってもいいんだったら、僕は毎日事務所に来たりしませんよ。電話を転送にして自宅で寝てりゃいいんですから」
「それじゃ、あんたも俺の出入りお断りって言うんかい?」
「僕が言うんじゃ無くて、会長の言うことは僕も守るということです」
「そんな固いこと言うなよ」
「僕は固いだけが取り柄なんです」
「じゃまあ、これからはなるべく遠慮するようにしよう」
「なるべくではなくて、会長の気が変わるまでずっと遠慮して下さい」
「何だよ。出て行けって言うのか?」
「その通りです」
「それはあんまりじゃないか」
「忙しいのに五反田くんだりまでわざわざ脚伸ばして来てやってるって言ってたじゃないですか。これからはわざわざ脚を伸ばして来る必要も無くなって良かったんじゃないですか」
「何? あんたそんなこと根に持っていたのか」
「いいえ。人の言うことをいちいち気にする程純情ではありませんよ」
「あんた俺が出て行かなかったらどうするんだ? 警察でも呼ぶのか?」
「いいえ、そんな面倒なことはしませんよ」
「ほーう。腕ずくで追い出そうって言うのか?」
「僕は自慢じゃ無いが、金と力は無いんです。きっと色男なんでしょうね」
「馬鹿言ってんじゃない。それじゃ俺が居座ったらどうするんだ」
「この事務所は水商売でも無いのにヤクザに毎月金払ってるんですよ。何のためにそんなことしてるのか不思議に思っていたけど、今そのことを思い出しましたよ」
「ふん。なるほど。糞爺もあんたも暗闇には気を付けろよ」
「後ろから突き刺すって言うんでしょ。分かってます。会長から聞いたばかりですから。ブローカーと言うのは、そういう人種なんだって」
「憶えてろ」
そう言うと山本はビラをくしゃくしゃに破り捨て、ドアを思い切り強く締めて出て行った。ビラは山本以外全部架空の名前だからもう用は無い。そのままゴミ箱に捨てて一件落着である。
山本と入れ違いみたいに桃子が入ってきた。先日とは又違う和服で、婆さんでもあるまいに、この年頃で和服を日常着こなすというのは今時珍しい。祐司は派手な洋装が好みだが、こうやって魅力的な婦人が実際和服を着ている姿を見るとこれも悪くは無いなあと思ってしまう。