フィヨルドの夜の祭り──逃走と戦闘とその清掃-5
涼子のリーガルの左足がほんの少し上がる。杉野の登山靴がぎりっと石畳を噛む。
どんな戦いでも、闘争である限り「間合い」は勝負の明暗を分ける。
先に動いたのは涼子の白魚のような指だった。曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハのクラヴィーアのフーガ。地を蹴った涼子の両手が空中の「スタッカート」の上で舞う。紫と緋色に彩られた音弾が杉野の足下と腕に直撃する。兵士の攻撃とは根本的に異なる、まさに音楽的な表情に満ちた攻撃だ。囁くようなピアニシモは弾幕となり、力強いフォルテは直撃する魚雷となって襲う。
初弾を腕に受けた杉野はにやりと笑う。そこの部分はピアニシモだったが、皮が大きく捲れ上がり、肉から血が迸った。杉野は地を這うように跳躍し、涼子の着地地点に拳を叩きつける。パワーだけでは説明できない衝撃波が炸裂した。それは直径3メートルもの窪地になり、そこから舞い上がった原爆雲のような強力な気流が涼子の足を捕らえ、回転させる。
その回転して逆転した涼子の眼はまったく瞬きをしない鉛色。その中心に向かって杉野は左の拳を回転させながら放ち穿つ。
その砂塵の褐色を呈した衝撃波は涼子の連続するフーガと空中で激突した。その衝撃は眼に見えないニュートリノやタキオンになって両側のビルに突き刺さる。硝子と煉瓦が砕け壊れ崩れ両者の肌を切り裂いた。
「こんのぉぉぉ細菌めえ! 私の肌を傷つけたな! その罪を思い知れ」
メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏第三楽章スケルツォ」が野獣のような音弾を放つ。その野獣のような曲想が軽快に杉野の肩と首を切り裂いた。
「俺の肌は敏感肌なんだ。肌が荒れるような錆びた剃刀を使うんじゃねえ!」
杉野は強力な握力と脚力に物を言わせてビルを歩くかのような速度で登り切り、左右の拳を交互に突き出しながら涼子に襲いかかる。物量の移動で大量に発生した真空刃が涼子に降り注いだ。
涼子は歯を食いしばり右手のトリルで微細な音弾を半球状に展開すると杉野の真空刃は飛散した。低音部の巨大な黒い音弾が杉野の腹に直撃し、跳ね飛ばされた杉野はビルに身体を打ち付けて落下する。
にやりとどす黒い笑いを浮かべた涼子に凄惨な笑みで応えた杉野は壁を蹴って水平に向きを変え、風を切るチョップにして光の刃を長く描いた。
とっさに「スタッカート」を盾にした涼子が後に転倒する。光の刃を受けた「スタッカート」の裏側から薄く青い煙が立ち上った。
「……この…私の背に土を着けたな…このような屈辱は初めてのことだ、褒めてやろう」
「いや、そこ石畳だから。土は着いていないって」
飄々と杉野は歩み寄るが、その上半身に布は殆ど残っていない。黒ずみ、紫色に腫れ上がり、出血は全身を覆い隠している。
対する涼子は夜叉のような爛々と輝く鉛色の眼を杉野に向ける。まるで岩を穿つような気迫が充ち満ちている。頬は傷を受けて一筋の血を垂らし、シルクのブラウスは所々裂けていた。傷は軽微だが、プライドの傷はかつて無いほど深く心を抉り出す。
杉野はこきんと首を折り、指の骨をバキバキと鳴り響かせた。
「礼儀を尽くしてやろう『ムスターファの銃弾』」
「メンデルスゾーン……幻想曲 ニ短調」
次の一期で決まる。両者の暗黙の了解。
仕掛けたのは涼子だった。「幻想曲 ニ短調」は連弾曲だ。攻撃の総量は倍化する。黒い音弾と白い音弾が矢のような高速で杉野に襲いかかる。
杉野は両手の指を掴むように構えてため込んだ気を放出した。
知らない人間が見たならば、暗闇の中の螢の乱舞のように見えたことだろう。
杉野は高速の音弾をほとんど全身に受け、血しぶきの中に倒れた。それはまるで巨大なシルクロードの神像が崩れ落ちる様に似ていた。
涼子は光の槍のほとんどを盾にした「スタッカート」で受けた。白銀の「スタッカート」は歪み、割れ、砕けて涼子はほぼ一回転して転倒した。
立ち上がったのは、涼子だった。ただ、傍らに転がった「スタッカート」はもはや残骸となり、東京湾に浮かぶ最終処理場の物質と変わらなかった。
初めは静かに、そして高らかに、やがて気が触れたように涼子は哄笑した。
が、それも一瞬の事だった。涼子の頭部に「スタッカート」が叩きつけられた。
「???」後頭部に走る激痛を堪えて涼子は振り返る。そこには群青に銀色の線を飾る一人の兵士が居た。
「な、な、なにするのよ! 私は『皇姫』よ! 無礼者!」
しかし、その怒りに歪んだ「スタッカート」を振り上げる兵士は一人ではなかった。