フィヨルドの夜の祭り──逃走と戦闘とその清掃-3
ピアノの打鍵音。
それも飛びきり強大なやつだ。ツバキ・ファミリアの入り口付近の男達が吹き飛ばされる。音源部の電源がカットされ、ステージにドラムだけが響き、それも止まる。残っているのはシンバルの残響音だけだ。
「逃げ足早いからね! 行くわよ! 詩音、沓水!」
言葉だけ飛ばすと、素早くステージを降りるベーシスト「レイン」を由子がステージに駆け上り、文字通りアンプの上を羽ばたくように跳躍してレインを追う。詩音はステージの上まで辿り着いたものの、いかんせん沓水が足枷になってしまった。
「沓水、やるときはやるのが約束だよ」
「何? 走りながら酒飲むのは中学校で卒業したからな、俺」
詩音は一瞬考え込み、頭に閃いた言葉をそのまま口にした。
「沓水、早くしないとカミュのナポレオン飲み放題に間に合わなくなるよ」
沓水は吊り目をくわっと開き、突然人が変わったかのように瞬速でアンプを飛び越え、由子の走った先に向かう。半端じゃない速度だ。詩音も必死にそれを追う。
「酒に意地汚いのは知っていたが…なんともはや…」
ステージの袖は荷物で埋まっていた。なるほど、由子が楽屋探しを諦めたわけだ。しかし、その荷物の影に、僅かなピンストライプのスーツの裾が見えた。なるほど、そこか……詩音もその隙間をすり抜けると、外気の臭いが漂ってきた。急いでその「出入り口とは違う」扉を押し開けると、そこは夜の路上だった。
しがみついた由子をどうしたものかと躊躇している灰色の髪の男、レイン。その手前でせわしなく周囲を見回している沓水。しかも左の出入り口外側に待機していた群青色に銀線が並んだ制服を身につけた兵士が二人駆け寄ってくる。
詩音はその向かって左側の男に全速で向かっていった。相手は詩音に気付き、48鍵盤の奇妙なキーボードを構える。その瞬間、詩音が消える。兵士は立ち止まり、戸惑った瞬間、その背中に詩音の全身の体重を乗せた肘が突き刺さった。『影』を歩くことに精通した詩音にのみ可能な『影』への浸透と復帰。頭に思い描いた単純なイメージだけで、瞬間的に『影』を歩くやり方だ。
兵士を倒した後、振り返れば沓水がまばらな口髭を逆立たせて唾を飛ばしている。
「ああん? 俺は旅行者だぞなあに他世界からの無許可侵入とはどういう法的拘束力があるか知らないがこれでも弁護士だ法廷に出るのなら俺の庭だ兄弟に会いに来たのに何が悪いお前らの所の統括議会議員の弟だぞニキ・スチュアート知らないなら教えてやろうかあ? 顔は違うさ腹違いだからなスチュアートの家の恥だから表立って動けないんだよなんなら兄貴に頼むかニキの兄ちゃんが貶められるのがそんなに嬉しいか棺桶に足突っ込んだ老人に未来を託したいならそうしやがれそうじゃなきゃお前んとこのアタマの皇姫とナシつけてもいいぞ手前ぇの将来をずたずたにしてやるから顔を洗って出直してこい!由子、詩音、レイン行こうニキ・スチュアート様の晩餐を共に愉しもうじゃないかあ」
完全に混乱した兵士は48鍵盤の武器をだらりと下げて途方に暮れている。聞いていた詩音はいつものポーカーフェイスでさりげなく沓水と行動を共にして、Rain's Booksのある路地を曲がる。
「よっしゃあ! 逃げるぞ『ロイス・ベル』へ走れ!」沓水が叫び、由子と二人で挟み込むようにレインを抱えて「ロイス・ベル」へ走り、詩音はそれを追う。念のため後を振り返ると、兵士が一人路地の角に立ち止まり、48鍵盤を構えている。だが、詩音の桜色の口唇は既に言葉を発した後だった。
天空の雲は大地に処女の口づけをする
儚く脆い夢よ我が望みをひととき許せ
諸手に抱くその幻の愛のために
まるで月明かりが落下したように兵士と「ロイス・ベル」との間に真っ白な雲が現れる。雲に音が飲み込まれ、僅かなくぐもった音が響く。詩音は三人に続いて「ロイス・ベル」に飛び込み、ドアが閉まる前にヘクトルが神がかった操作を一瞬で終え「ロイス・ベル」のエンジンが咆哮してたちまち異なる『影』への転移を始めた。
「……三行詩で防げたか。結構危なかったね」
「お二人ともご苦労さん。見事な連係プレーだったわ」
「好きでやった訳じゃねえ、畜生、酔いがすっかり醒めたぜ」
沓水は冷蔵庫から凍ったグラスとズブロッカを出すと、なみなみと注ぎ、喉の奥に放り込んだ。そしてレインに気付き、グラスをもう一つ出して、レインの前のテーブルに置き、グラスいっぱいにまで満たした。
「遠慮はいらねえぜ?」
アイソトープ・レインは口を半開きにして茫然としていたが、語るべき言葉は喉を通ることはなく、諦めてグラスに口を着けた。