夜のフィヨルド──夜の彷徨と由子の幸運の鍵-1
「ロイス・ベル」は緩やかな坂道から、細かい振動が伝わる石畳へと滲むように走る。
そこは夜の閑散としたビル街で、所々に哀愁を帯びるガス灯が灯っている。ヘクトルは道路の起伏の変化にタイヤが足を取られるのを繊細な三角定規の指で細かく調整しながら制御した。空は曇っているのか、星一つ見えない。
「ユニオンの推測が間違っていなければこのあたりなんだが。とにかく「ロイス・ベル」はこの街では目立ちすぎるな。ヘクトル、そこの横道の影に潜り込んで止めてくれ」沓水が頬杖を突いたままヘクトルに指示する。
「ロイス・ベル」には狭すぎる角を、また『影』を歪めて右折する。そして右側ののっぺりとした壁に停車した。
「ヘクトルはここで待機してくれ。由子、「感じ」はどうだい?」
「間違いないわ。何よりも街が持っている『空気』ってあるじゃない。間違いなく一致する」
「じゃ、面倒だが夜の散歩と洒落込むか。行くぞ」
沓水、由子、そして詩音が石畳の道に立つ。気温はやや肌寒いが風はない。向かいの貧相なビルを見上げた沓水が興味深げに呟く。
「古書店だな。「Rain's Books」と言うからには間違いない。開店している時に一度寄りたいものだ」
「ええええ、沓水、ここの文字が読めるの?」
沓水はへっと笑い、由子を見下すように言う。
「あのな、俺はなにもメシュメントばかりで仕事している訳じゃないし、必要な言語は喋れるし、読める。俺が全世界最高の博覧強記の天才であることを忘れて貰いたくないな」
「沓水様、「ロイス・ベル」は広いと言っても限界がございます。いつぞやのように満杯になるまで買い込まないでくださいね。また新しい書庫を借りなくてはなりません」
「うるせえな、弁護士にとって「資料」は必要経費だ。メシュメントにいくら税金を納めているかはお前が一番良く知っているだろうに」沓水は車のドアを叩きつけるように閉める。
「とりあえず、そこの大通りを歩いてみるか」
一行は石畳を踏みしめながら歩き始めた。何処もここも陰鬱で暗い。いくつかの横道や路地を覗きながら進む。いくら歩いても風景が変わらない。それほどランドマークになる物がない無表情な街なのだ。
「質の悪い『影』だな、こりゃ。きりがないぞ。由子、なんかないのか? 憶えてねえか?」
由子は髪の毛を弄びながら眉をしかめる。
「解らないわよ。ここだって言われればここだと思うし、違うって言われたらその通りだと思うし。何しろ目立つ物が何もない所だったから」
その時、ひとつの瓦斯灯の下に大柄な影が通り過ぎるのを詩音が見つけた。
「…聞いてみるだけでも、収穫になるんじゃない?」
「そうだな、ここでは人がランドマークになる。他に手はない」
歩く影を先回りするようにして一行は立ちはだかった。それは作業着のような服を着た巨漢の男だ。髭面で、いかにも粗野な感じが伝わってくる。
「あ!」由子が思わず叫ぶ。男も目を見開いて由子を見つめた。
「よう、お嬢ちゃん。無事だったんだな。で、やっぱりあれかい? ツバキ・ファミリアがお目当てかい? それならちょうどいいんだがな……今回は忙しくてノルマが果たせなかった所だ。三人分だと2400ガデスになるけどな」サクラ・ファミリアのライブの警備にあたっていた「ガリー」と呼ばれる男だった。