冷却用三角定規──沓水の法律事務所-3
「あんなの見え見えじゃねえか! 伏線ってものがねえんだよ。物事には暗喩と明喩というものがあるの! 灰色の脳細胞が惹起するロマンな事件じゃねえよ! 官僚のズルを解き明かしたってだけで新聞がほざいているだけで、あんなのそこらへんに転がっている計測不能者にまかせておけばいいんだ! 俺の出番はもっと高尚で世間をあっと言わせるものじゃなきゃ駄目なんだ!」
ヘクトルは指に当たる五つの三角定規を器用に連打させて目の前のノートパソコンを操る。フィンガーアクションがあんなので出来るなんて信じられないが。
「先月の被害者以外の乗客が全部犯人だと立証したときはこのメシュメントが感銘しましたわ。実は沓水様の裏の依頼であるなすりつけにも成功しましたし。清廉潔白なだけではない部分も含めて、本物の天才と言うのです」
「オリエント急行だよ! クリスティじゃねえか。俺はクイーンの方が好きなんだ! まあったくもう……ま、随分汚いことをしてしまったが、騙されやがって、ざまあみろ。けけけけけけけっ」
饒舌の限りを尽くし、怒りに身を震わせていた沓水の表情が、ほぼ普通に戻る。
「沓水法律事務所はもはやこのメシュメントの財産とも言える、今一番ホットなスターでございます。栄えある『ユニオン』の理事の一人でもあるのです。そのように小さな事は気になさらずに、事件を解決して下さいませ」
沓水の口唇が僅かに上方向に引き攣る。眼は笑みと言っても良い輝きに満ちている。
「ま、俺みたいな天才にはくだらねえんだけどな。でもまあ、困ったときは頼られるのも天才の宿命かな」
「勿論でございますとも。剃刀のように切れ味の鋭い推理、量子コンピュータもかくやという論理と記憶力。沓水様のような至高の天才に恵まれたメシュメントは幸せでございます。そんなお方にお仕えできるわたくしも鼻が高いというものです」鼻は無いけれどな。
「まあ、いいか。ヘクトル、珈琲をくれ給え。エスプレッソのイタリアンでな」
「かしこまりました」
どこがどう繋がって動いているのかは複雑でちょっとしたパズルだけど、ヘクトルの動きは滑らかで優雅だ。床との接触面が鋭角の三角定規の頂点にあたり、まるでハイヒールを履いたモデルのような錯覚を受ける。
その時、沓水の引き出しの中で何かがはためく音がした。沓水は眉を寄せて引き出しを慎重に開ける。
そこには青々とした一枚の楡の葉が踊っていた。窓が開いている訳ではない。そもそもオフィスははめ殺しのガラス一面で、窓を開くことが出来ない。扇風機など無い。沓水は首を傾げた。
「たしかこれは……天羽詩音にもらった『念葉』とかいうやつか?
おそるおそる握ると、踊っていた葉がぴたりと止まる。そして葉が微かに振動して音声を発声した。
「やあ、沓水、詩音だ」
「気っ持ち悪いなあ、なんだこりゃ」
「僕は貨幣を作ったり影を自由に歩くだけが能じゃないよ。この『念葉』も作ることも出来る。これはどんな場所にある『影』でも通用する万能の通信機なんだ」
「そりゃ便利なことで」沓水が鼻で笑う。
ヘクトルが置いていったエスプレッソを一口含む。泡立ちといい、最高の一杯だと思い、その芳香に満足して頷いた。
「実は頼みがある」
「ロハじゃやらねえよ、秘書を通してくれ」
「今回はあんまり時間がないんだ。君の力を全部借りたい。秘書のヘクトルさん込みで」
「おめえ、ばっかじゃねえの? 俺、メシュメント最高にして超有名な弁護士だぞ? ペリー・メイスンより有名で有能な天才を君は顎で使おうと言うのか」
「報酬は払うよ。君の出席日数でね」
沓水は凍り付いて息を飲む。
「どうやってそんなことが出来るんだ? 毎日の出席はショッパチの出欠簿で、黎明学園には警備員も居るんだぞ、当直の教師も。その上セコムだ。檻の中じゃないか」
「物理的には檻の中さ、確かにね。でも、僕は『影』を自由自在に『歩く』事が出来る。これがどういう意味か、機敏な君には解るよね?」
「………そういうことか…」
「それに、とても微妙に近い『影』にも出入りできるよ。『君が弁護士ではなくて普通の優等生の生活を送っている』という『影』にもね。そこには全部ショッパチ自身の書いた君が授業に出席している出欠簿もあるんだ」
「……話を聞こうか」
詩音は由子の事情と目的を手短に説明した。
「話はわかった、乗ってやるよ」
「ありがとう。今日の夕方の五時に『お化け会館』の前で待っている」
「わかった」
葉っぱの振動がとまり、ただの葉っぱになる。沓水はそれをスーツのポケットに入れて立ち上がった。
「ヘクトル、『ロイス・ベル』を出してくれ」