お母さんじゃない-1
(1)
「新しいお母さんがくる」
父親から突然そう言われたのは裕太が15歳、中学3年の冬休みのことである。
「お母さんがいたほうがいいだろう?」
裕太は父の顔を見つめたまま黙っていた。想像もしていなかったことで返事のしようがなかった。
「お父さん……その人と2年前から付き合ってるんだ……」
照れ臭そうな父の表情を見て、裕太は特に動揺を感じることはなかった。中学生になれば遠回しな言い方をしないほうがいい。父がそう考えたかどうかはわからないが、はっきり言ってくれたことで動揺もなく、むしろ素直に受け止めることができた。ただ、母親がいたほうがいいだろうと聞かれたことに関しては複雑な想いが巡るばかりだった。
実母は4年前家を出ていった。正式に父と離婚をして別れたのである。両親の度重なるやり取りから、母が数年前から浮気をしていて、さらに借金までつくっていたことがわかった。
そもそも裕太には母親に甘えた記憶がない。わがままで、些細なことで怒り出す気性の母を避けていたくらいだった。
「子どもなんて面倒くさい」
吐き捨てるように言った言葉に暗い気持ちになったのを覚えている。それは、傷付く、というより、母親の存在が彼の心から消え去った時であった。
(お母さんなんかいらない……)
噛みしめるように心で呟いたものだった。
母親がいなくなって淋しいと思うことはなかった。それは健全な子どもの姿ではなかったが、特に成長に支障もなく問題行動を起こすこともなく、学業成績も平均を上回っていた。
その頃、父は小さな電気店を営んでいた。いつもそばに父親がいたことが孤独にならずにすんだといえるかもしれない。だが、そもそも愛情を注がれたことのない身勝手な母親がいなくなっても何も変わることはなかったのである。
ところが2年ほどすると店が立ち行かなくなった。大型電気店が近くに出来たことを古くからのお得意に嘆いていたことがあった。
父親がトラックの運転手になったのと新しい母がくることと無関係ではないと裕太は考えていた。
「長距離ルートだから、泊まりになることもあるんだ」
子ども一人で夜を過ごす。……何度か言われた。
「淋しいし、怖いだろう」
だから家にいてくれる人が必要だ。……結果としてそう言いたかったのだろうと思う。
「僕、平気だよ……」
強がって言ったつもりだったが内心は不安だった。
新しい母は、父にも必要だったし、裕太のためにも、そして『家庭』を作るために不可欠な存在だと、父親は考えていたのだろう。実母が壊していった家を再構築するために。父がこの時期に話を明かしたのは仕事の都合もあっただろうが、裕太の進学先が決まったことも大きな理由の1つだったと思われる。推薦で希望の高校に合格して間もなくの告白だったのである。受験期のしかも多感な年頃に配慮したものだろう。
『母』の名は亜由美といった。父とどこでどう知り合ったのか、裕太は知らなかったし訊くこともなかった。
「裕太君、初めまして。よろしくね」
驚いたのはその若々しさであった。齢は30歳と聞いていたから裕太から見れば『おばさん』だろうと想像していたのだが、印象は、
(お姉さん……)
裕太は眩しさを感じて俯いてしまった。
「何を恥ずかしがってるんだ。これから一緒に暮らすんだ。仲良くしていこうな」
実母とは正反対の明るさと清々しさに裕太はときめきすら覚えて、継母という壁など微塵も感じることはなかった。
「ピアノの先生をしてるんだ。家でもピアノ教室を開く。だからな、いつも家にいてくれるんだ。よかっただろう?」
「うん……」
裕太は精一杯の歓迎の態度をみせて返事をした。
家族3人の新しい生活は裕太の高校入学とほぼ同時に始まった。明るく楽しい毎日だった。
朝起きると温かい朝食が待っていた。裕太にはほとんど経験のない出来立ての朝食。
「朝ごはんはしっかり食べないとだめよ」
亜由美のやさしい笑顔と真新しい白いエプロンが眩しくて、爽やかで、裕太の朝の楽しみになった。
夕食は彼の好物ばかりが並んだ。ハンバーグ、唐揚げ、カレーライス……。
「味はどう?」
「すごくおいしい」
「よかった」
本当においしかった。
「たまには俺の体脂肪も考えてくれよ」
言いながら、父は嬉しそうだった。三人の生活が順調にいくかどうか、少なからず不安はあったのだろう。
1階の洋間には部屋いっぱいにグランドピアノが置かれた。
「レッスン室に使わせてね」
何だか自分の家ではないような違和感を感じたが、そこに亜由美がいて優雅な旋律が流れると自分の心も豊かになるような喜びに浸る心地がした。
「裕太君、ピアノ弾いてみる?」
「弾けないよ」
「教えてあげるよ」
音楽は苦手だった。だが、細く白い指はとてもきれいで、裕太は不思議な高揚感に包まれて見とれていた。