深夜の展望台-3
「やめて下さい…」
「嫌なの?」
「忘れたんですか。私、結婚して夫がいるんですよ?」
「嫌なの?」
「嫌…とかじゃなくて。ダメでしょ、こんなの。」
「嫌、ではないんだね。」
私は俯いて口を閉じた。
「下品なこと言うようだけど、俺たち、既にしてるじゃないか。十年も前に、最後まで。」
俯いたまま視線だけを彼の方に上げた。
「…本当に、下品ですね。」
そう言いながらも、私の下腹部の奥に灯った炎は、ジンジンとくすぶり始めていた。
「思い出してくれ、あの時の素直な気持ちを。」
私は顔を上げて彼を睨んだ。
「言われなくても思い出しちゃいましたよ。どうしてくれるんですか。」
先輩は無言で私のブラウスの三つ目のボタンを外した。
「ダメですってば…。」
「ダメって言いながら逃げないじゃないか。」
「…。」
四つ目のボタンを外された。残っているのはあと一つだ。今や、ブラと上半身の素肌が完全に彼の目の前にある。
胸元に手が伸びてきた。ブラを掴まれた。
「ダメです。」
その手を私は掴んだ。
「直香…」
「ダメですよ…こんな所じゃ。」
彼の手を掴む力を強め、上目遣いに目を見つめた。
ふうっ、と息を吐いて先輩は手を放した。
「音楽でも聴こうか。」
「え…」
諦めたのだろうか。
「俺の、走るリスニングルームで。」
「走る?」
「いや、正確には移動できる、かな。」
先輩は車のリモコンキーで左の電動スライドドアを開いた。それは軽やかなモーター音と共に右へと滑り、ガチャリ、と止まった。
「うわあ…。」
「どう?驚いた?」
助手席に座っているときには気付かなかったのだが、普通は二列目のシートがあるはずの所から後ろには、大きな空間が広がっていた。床には毛足の長いフカフカの白いカーペットが敷いてあり、座椅子を二つくっつけたような形のローファーが運転席とは背中合わせに後ろ向きに置いてあった。天井には頑丈そうなバーが左右に渡してあり、そこから後ろの端までネットが張ってある。ネットの上には赤いロープのようなものや袋、箱、その他よく分からない物がいくつか乗っているのが見えた。左右の壁際にも奥行の浅い小物入れが置いてあった。
「車の中って、こんなに広いんですね。」
「だろ?動くリビングさ。」
「二人乗りにしちゃったんですか?それとも前の二人以外は寝転んで乗るとか。」
「二人乗りだよ。寝転んで乗るなんて危ないことしない。シートベルトすら出来ないからね。さあ、乗って。」
「はい。」
ステップに靴を脱いでカーペットに上がり、あらためて中を見回した。
「あの、リスニングルームだって言いましたよね?」
「そうだよ。」
「スピーカーが見当たりませんけど…。」
「ふふふ、そうだろ。でもちゃんとあるのさ。」
先輩が右側の壁の小物入れの扉を開くと、中に小さなオーディオセットが入っていた。
「ああ、なるほど。でも、やっぱりスピーカー…」
「いくよ。」
彼が何か操作すると、いきなり華やかなブラスが鳴り響いた。その瞬間、私は息を飲み、鳥肌が立った。
「せ、先輩。これって…」
「そう。あの年の吹奏楽コンクールの課題曲。みんなで何百回演奏したか分からないね。」
楽器の音の一つ一つが、懐かしい顔の記憶を呼び覚ましていった。クーラーの無い音楽室の窓を閉め切って、ブラウスが透き通りパンティがお尻に貼り付くくらい汗だくになりながら私はクラリネットを吹いた。指揮台に上がっている伊巻先輩は、コンマスの私の目の前で真剣な横顔を見せている。彼の汗が飛び、楽譜にひとしずくかかったが、私は気にならなかった。
難所にさしかかる。複雑なポリリズムを刻みながらブラスとサックスが絡み合い、木管が目もくらむような高速パッセージを煌かせて駆け巡る。
伊巻先輩の視線が私をチラリと捉えた。私は無言でコンタクトを返す。
高音は輝きを増し、低音はズーンと重く沈み込み、怒涛のティンパニが大地を揺らしてシンバルが咆哮をあげた。
そして、巨大なうねりと化した音楽がついに絶頂を迎えたその瞬間。指揮者が大きく広げた両手が一気に振り下ろされ…。
時が止まったかのように、全ての楽器が静止した。
その静寂の中からフーっと浮かび上がるように私のクラリネットソロが…。
「おい、聞いてるか?杉本。」
「え…」
「おいおい。せっかく説明してやったのに。」
隣に座っている先輩がなんだか怒っている。
「何をですか?」
「スピーカーだよ。苦労したんだぞ、これ。話、聞いてくれよ。」
「あ、すみません。」
ふんっ、と息を吐いて座りなおしてから、先輩の説明が再開された。
「いいか?ちょっと見ただけでは分からないようにツイーターをピラーに埋めてサテンネットで隠してだな、スコーカー及び同軸センターは、リアガラスをバッフルに利用してバックドア内部。スーパーウーファーに至っては、元々はサードシートの収納スペースだった床下にボルト止めしてパンチングメタルボードでフタをしてカーペットを…」
何を言っているのかよく分からないけど、自分の好きなものの話になると止まらなくなるのは、昔の伊巻先輩のままだ。
「どうだ、完璧だろ。」
「あ、はあ…すごいですね。」
先輩はちょっとイヤな顔をした。
「杉本さん…。君、絶対分かってないよね。」
「え?えーっと…」
「まあいいや。」