深夜の展望台-2
「杉本さんもセンスのいいファッションになったね。そのブラウス、高いんだろ？ブランド名ぐらいしか知らないけど。スカートもパンプスもバッグも。安物は一つもない。かといって華美にはならないで上品にまとまっている。見た目のハデさより品質を重視した選択だね。」
「あら、ずいぶん女性の事に詳しくなったんですね。」
「まあね。」
タイトナコーナーが連続する観光道路を走っていてさえ彼の運転は揺ぎ無く、少しも緊張を感じずに会話を楽しめる。
「でもね、先輩。私は今、夫と二人で幸せに暮らしてるんです。いくら素敵になったからって、後悔なんか…」
グァオォォン…ギュルルゥ…。
さっきすれ違ったシルバーのセダンが、急カーブの途中だというのに無理やり抜いていった。
「…そうか。」
先輩は暴走車など全く意に介しない様子で呟いた。
頼りない街灯しかなかった夜の観光道路の先に、まとまった灯りが見え始めた。
「あそこだね。」
そこは、山脈の尾根伝いに作られた観光道路の名所の一つで、百万ドルとも一千万ドルとも形容される夜景が見渡せる展望台だ。
東西に連なる標高１０００メートル級の山脈と静かな海に挟まれた細長い平野に、まばゆいばかりの街の灯りが広がっている。真っ黒な海とのコントラストが見事だ。視線をさらに遠くへ伸ばせば、灰色の大きな島影が見える。
ちなみに、この場合の百万ドル、という金額は、元々は一晩の消費電力を見積もった数字に過ぎない。見た目の美しさではなく、科学文明の輝きを称えた表現だったものが、いつしか素敵な夜景に対する形容に使われるようになった、らしい。そのことを教えてくれたのは…。
「ラッキーだね。今日はこの季節にしては珍しく空気が澄んでるみたいだ。」
「ええ、こんなにはっきりと見えたのは久しぶりな気がします。」
「あの時以来？」
「え…。」
「来たじゃないか、二人で。電車とバスを乗り継いで。」
「あ、ああ、そうでしたね。」
夫の幸雄さんとも何度か来たことがあるが、これほどの夜景を見れたことは無かった。
「綺麗だったよね、あの夜も。そして、そこのベンチに座って…」
「やめてくださいよ。あんまり人妻をからかうと、帰りますよ。」
私は笑いながら抗議した。でも、帰りたい衝動に駆られたのは本当だ。本能的な何かを感じて。
「へえ、どうやって帰るの？」
トボけて見せる先輩。
「二人ともヘトヘトになったの、忘れた？ここは穴場的スポットだからバス停までかなり歩かなくちゃいけないし、そもそもこの時間じゃバスの便はほとんどない。」
「そうでした…。」
その夜、結局二人はほとんど灯りの無い未舗装の夜道を寒さに震えながらトボトボと歩いて街まで下った。十代の頃でさえ疲労困憊したのだ。今の私じゃ、到底たどり着けないだろう。しかも、今日は低いとはいえヒールを履いている。
「暗いよ、怖いよ、寒いよ、もう歩けないーって、泣きながら俺にしがみついてたの、誰だっけー。」
「も、もう！昔の話じゃないですか。」
「そう。昔の話。今日は俺の車が」
振り返ると、私たちが乗ってきた黒い塊が、人の心のスキを伺う獣のように闇に紛れている。
「あるから心配いらない。」
「はい…。」
心細くなってしまったせいだろうか、それとも今はこの人に頼るしかないと意識させられたからだろうか、伊巻先輩がとても頼もしく見えてきた。あの夜と同様に。
ヘタレに見えてもやるときはやる、芯の通った人だった。だからこそ憧れ、心を開き、そして、そして…。
「むぐっ？」
不意を突かれた。
「な、な、な、何するんですか！」
唇を奪われた私は狼狽して叫んだ。
「怒りますよ、本気で。今の私は先輩の彼女じゃなくて、他の人の…むぐぅ」
もう一度唇を合された。
「ダメ…ですってば。」
私は体の力が抜けていくのを感じた。
「座ろうよ。」
「え？あ、はい…。」
誘われるままに先輩に手を引かれ、夜景を見渡せるベンチに座った。あの時は木の匂いを漂わせていた真新しいベンチも、今では落ち着いた色合いとなって景色の一部に溶け込んでいる。
「こんなことをするために、ここに誘ったんですか？」
「さあ、どうなんだろう。」
「はあ？」
「いや、分からないんだよ、正直。」
「はあ。」
「君と再会して胸が躍った。そして思わず電話してみたら、ラッキーなことに番号は変わっていなかった。君は俺の番号を消しちゃってたようだけど。」
「い、いや、消したわけでは…」
「誰からの電話か分からなかったくせに。」
「あ、うん…。」
「ま、それは置いといて。そのあと近況報告と昔話をしながらファミレスでご飯食べただろ？そしたら無性に来たくなったんだよ、ここに。君と。」
そうだった。しかも、彼が一方的に誘ってきたのではない。どちらからともなく、あの展望台へ、となって。
「蘇っちゃったみたい。あの頃の直香への気持ち。」
真っ直ぐに見つめられた。
反射的に目を伏せた。
「だ、ダメですよ、そんなのって…」
そう言いながら、抱き寄せられるままに彼の肩に頭を乗せた。唇が迫って来る。目を閉じた。
初めての時が冗談だったかのように、彼のキスは素敵になっていた。私の心はとろけ、ブラウスの上から胸を撫でられても手をどけようとは思わなかった。
ボタンが一つ、外された。
「ダメ…」
「大丈夫だよ。あの時みたいに手は震えていない。ちゃんと外せるよ。」
「そうじゃなくて。」
二つ目のボタンを外された。谷間とブラが顔を出した。