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『手』
【ホラー 官能小説】

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-1

ああ、また来たか。0時を回ったところで耳鳴りと共に仰向けのまま体が動かなくなった。金縛りだ。ここに越して2ヶ月、もう何度目だろうか。今となっては恐怖の対象ではなくなった。今となっては、だが。目が開かない状況でも瞼が透けるように、目の前の光景が見える。それが視界なのか、脳内に何者かが映像を送りつけているのかは2ヶ月経った今も分からない。オレンジの薄明かりが点いたままの蛍光灯か、そのスイッチの紐辺りを眺めていると、白い煙のようなものが現れ、密集していき、それはやがて…人の『手』になった。白い、血の気のない、なめらかな『手』だ。
今夜もおいでなすった。
その『手』はゆっくりと、木田の首元へと伸びていった。

木田は大学を卒業後、県内で知らない者はいない程の一流企業に就職した。そこに入れば一生を約束されたようなもの、ありがちではあるがそう評価される職場は、これまたありがちだが超が付く程のブラック企業だった。毎日がサービス残業、休日出勤も当たり前、まともに休めるのは月に2、3回程度で、あとは終電ギリギリに電車に駆け込み、寝て起きて出勤という日々だった。
取り分け木田が消耗させられたのが、直属の上司だった。パワハラセクハラは日常的で、初対面で目付きをダメ出しされて以来木田は集中的にいびられていた。時には後から入ってきた後輩の前で小突かれたりもした。
そんな毎日に自尊心と理性を削られ、入社3年目で木田はその上司のネクタイを根元から掴んで壁に押し付け、暴言を吐いてしまった。中高大学と柔道部で活躍した木田にとって、160p程度のやせ形の体型は非常に軽く、片手で掴んで爪先が浮く状態だった。周りの同僚が止めなければ間違いなく上司は病院送りにされていたであろう。
ただ、木田はこの上司が先代社長が猫可愛がりしていた隠し子だということを知らなかったのだ。問題が上司の耳に入った翌日には、木田は面談もなく自主退職扱いの、実質クビとなってしまった。資格持ちではあるが先代社長の手が回り、同業では働くことができなくなってしまった。さらにその翌週には一流企業で働く木田をブランド扱いしていた彼女にもフラれ、同棲を解消されてしまった。
彼女はもういい。取り敢えず仕事だ。県外で資格を生かせる職種に就くか、新たに資格を取り直して県内で働くか…いずれにせよ先立つものが必要だと判断した木田は、ひとまず貯金を切り崩さなくていいように行動を始めた。まずは当面の生活費を稼ぐためにバイトを探した。これは以外に簡単だった。大学時代の友人で未だフリーターの男がいたので、彼の紹介で少し安いがコンビニで雇ってもらえた。後は出費を削らなければならない。まずは家賃、1人暮らしに1LDKは広すぎる。最寄りの不動産で取り敢えず一番安い部屋を紹介してもらった。

「それではこちらの1Rで月々4万円で敷金…」
「はい、できれば今月末にでも…」
話が決まりかけていたとき、最初に出された物件一覧にふと目が移った。

1K1.8万円/月 敷金礼金不要 要相談

「あ、すいません。これって…」
担当していた男性スタッフの顔がサッと青ざめたのが木田にも分かった。訳あり物件か。案の定男性スタッフは言葉を濁しながらも渋りに渋った。
「あー…申し訳ございません、そこはあまりお勧めしません」
「築年数も古いですし…え?あ…まだ8年…あー、そう書かれて…ますね。はい…」
「学校が近くにあるので朝夕の登下校時間がうるさく…あ、仕事でいない時間…んーまぁ…確かにそう…ですよねぇ…はは」
「ええ…その…実は数年前に不幸な事件が…まぁそうです。ありがちですがそれ以来『出る』という…」
やっぱりそれだ。木田はこの類いの話を嫌う。怖いのではなく、信じないのだ。一部の内容は伏せたが事情を話し、強引に交渉を進めたことで無事、訳あり物件に移り住むことが出来た。
「身の危険を感じたら、すぐに出て下さい。代わりの物件はいくらでも用意しますから」
男性スタッフは何度も木田に言って聞かせたが、木田は右から左へと聞き流し、翌週には不必要なものは実家へ送り、最低限の荷物だけで訳あり物件へと引っ越したのだった。
さて…引っ越して最初の印象だが…狭い。その一言に尽きた。元々心霊的なものを信じない木田に霊感が働くはずもなく、空気が重い感じも、誰かに見られている感じもなかった。ただ狭いという感想しかなかった。だが前向きにならいくらでも考えられる。まず掃除が楽だ。それに新しい働き口を探すため勉強しなくてはならないのだ。誘惑のある物すら置くスペースがない方がいい。
そう開き直ってからは気持ちも楽だった。バイトと勉強、そして空いた時間を使っての職探しという毎日だった。そして1週間が過ぎた頃、突然『訳あり』が木田に牙を剥いたのだ。
資格の勉強が一段落着いたところで時計を見ると日付が変わる前だった。寝るか。照明を暗くして狭い部屋で布団に寝転がった。目を閉じて階下の生活音に耳を傾けた。下に住む人は必ずこの時間に水を使う。しかも結構勢いよく蛇口を捻って長時間使っているようだ。洗い物か何かか…そう考えていると急に両方の耳に閉塞感と甲高い耳鳴りが起こった。何だこれは…体を起こそうとすると全く動かない。指1本すらも動かせない。目も開かない。あまりにも霊的なものを信じない木田でも、これが金縛りなのだと理解できた。なぜなら、目は閉じているはずなのにオレンジの薄明かりに照らされた室内が見えるからだ。こんなことがあると聞いてはいたが、しかし、金縛りとはこんなにも動けないものなのか。必死に体を動かそうともがいていると、部屋の中央に白い煙のようなものが現れ、密集していき、それはやがて…人の『手』へと姿を変えた。もし言葉を発することができていたら、木田は有らん限りの声を出して叫んでいたかもしれない。全身が総毛立つのがわかった。


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