僕は14角形-45
34
「郁夫!気をつけて!」口唇を離し、僕は叫んだ。
郁夫はどぎまぎしながら周囲を見回す。
僕が郁夫の背後に隠れた瞬間、ひとつの黒い影が鋭い突きを繰り出した。しかし、郁夫は少し離れた手の構えでそれらを全て受け流した。とても流麗な動きで。
やがて影は飛ぶように遠ざかり、たった一歩で間合いを詰め、強烈なストレートを放った。しかしそれは郁夫の右の手のひらに打撃し、郁夫の左手がその指を捕らえて直角に曲げて捻ると、肘、肩の順番で影の動きが凍結し、最後には一回転してアスファルトに強烈に叩きつけられた。郁夫は平然としてその影のみぞおちに神速ともいえる一撃を加える。全部で、2秒にも満たない攻防だった。
「……何が目的だ?貴様ら」
さっきまでの郁夫とは全く別人としか思えない人間が片手で「影」を持ち上げる。
力を失った影はスキンヘッドの中年の顔を晒した。
「くそ…伊集院か…」
中年男は腰から光る凶器を郁夫に見舞ったが、郁夫は苦もなくそれをつまむようにして折った。そのまま掴んでいた片手でまたアスファルトに叩きつける。
その瞬間、凄まじい閃光が郁夫の眼を射った。隠れていた車のハロゲンライトだった。ドアが開く音がしたかと思うと、倒れた中年男が引きずり込まれる。ハイブリッドカーだったようだ。滑るようにして車は表参道とは逆の路地に吸い込まれる。
走り去る車を見送りながら、郁夫はふて腐れたように言い放った。
「エンジン音が聞こえませんでした。ハイブリッドカーですね、不覚です」
郁夫は折れたナイフを拾い上げ、表参道からの光に照らす。
「フラクタルナイフですか。かなり本気のようです」
郁夫はそれを放り捨てると、僕に振り返り、目尻を下げて微笑んだ。
「大丈夫? 詩音」
僕は腰を抜かして立てないでただ茫然として。郁夫を見上げていた。
タクシーの中は無言だった。水銀灯が兵隊みたいに整列して川のように流れて行くのを、詩音はただぼんやりと見ているだけだ。
ついさっきまでの情熱や欲望、危機や焦燥が嘘のよう。隣にはやはり無言の郁夫がいる。でも、それはさっきまで楽しく付き合っていた郁夫ではなく、「伊集院」郁夫であって、全くの別人だ。僕は、何もかもが蒸発してしまったような虚脱感に包まれ、ただタクシーの後席で膝を抱えていた。郁夫は携帯を胸に折りたたんだ。
「……草冠の所の伊集院さんと、関係あるんですね」
郁夫はばつが悪そうな顔をして、しっかりと声を出した。
「僕の長兄です」
「体操部なんて、嘘だったんだ」
「小さな時から長兄に毎日叩きのめされていましたよ……拳法です。長兄は師範の資格を持つ有段者です」
夜はさらに更けて、暗さを泥のように不透明にして行く。
「最初っから、そういう目的だったんですね」
「ん〜、それを言われると痛いけど。でも、君があまりに美しくて魅力的だったから、どっちかというとそっちのほうは建前になってしまいました。基本軽いんで、僕」
はあ、と僕は苦しいため息をついた。
黎明学園の寮に着いたときに、門の前に綿星が立ち尽くしていた。タクシーから降りた僕を、優しく抱きしめ、胸に僕の頭を抱えた。そして郁夫をほぼ同じ高さから視線を合わせて得意の意地悪な笑みを浮かべた。
「誰だか、多分解るけど。ご苦労様」
「いやいや、どういたしまして」郁夫が頭を掻く。
「結果オーライかも知れないけど、私は許さないわよ」
「ま、そう言われると答えようもないけど」
綿星は郁夫に平然とした口調で告げた。
「草冠のご隠居とその一党に。こうなったのは草冠が派手に動いて、誰かにそれを知られたから。責任を持ってその問題を根治させなさい。条件は天羽詩音の平和と安全の絶対的保証。以上!」
綿星はそう「通牒」とも「通達」とも解釈できるような言葉を朗々と宣言すると、詩音の細い腰に手を回して寮の門に押しやった。
詩音は、振り返り、立ち尽くした郁夫──「伊集院郁夫」を見つめる。
目を合わせたとき、何かが二人の間に響き合った。それが何かはわからないけど、詩音はその言葉を飲み込んだ。
郁夫はウインクを詩音に送ると、再びタクシーに乗り込み、走り去って行った。