僕は14角形-39
「シフォンのドレス、モチーフワンピースよ。いやあ、まいった。いいからすぐ着てみて!」
「いいよ、出かける前で」
「いいから!これはもう命令。すぐに脱ぎなさいよ」
「脱ぎなさいよって、俺、まっぱだし」
「かんけーない。この野郎!」
綿星は僕のバスロープのベルトをひっぺがし、頭の上から得体の知れない布を被せた。
肌触りが異常に良い。滑らかに肌を泡立てるそれは、「服」という感じが全然しない。軽い羽根を身につけたような、そんなうっとりさせる感触を持っている。綿星は驚愕したように僕を見つめ、両手で口を押さえた。
「い、いいから。自分で見てご覧なさい」
僕は綿星の背丈に合わせたような大きな姿見の前に立った。
そこに、誰か居た。思わず「初めまして」とお礼をしたくなったが、ちょっと勘違いしているのに気が付いた。
鎖骨が見えるぐらいで胸はそんなに開いていないが、肩の近くまで広く露出している肌。頸の下から幾重にも重なった縦のギャザーが伸び、それはグラデーションみたいに腰から下へ滑らかに平滑化している。膝から十数センチのところで半透明になり、再びシックな飾りで膝上数センチで僅かに開いている。
袖はふっくらとした絶妙なラインで肘の少し下でキュッと締まっていた。
何よりも、ボディラインが絶妙に表出しているのは驚嘆に値する。
「これも履いてみて」
綿星が蹲って僕の足に絡みつけたのは、明らかにこの服と合わせてデザインされたサンダルだった。華奢、というか、華麗だ。
僕は姿見の前でしばらく立ち尽くした。
僕は振り返り、珍しく笑って綿星に言った。
「誰だい? この人」
29
渋谷駅のハチ公前広場に着いたのは18:50分だった。
「こういうのはね、少し遅れて行くものよ」という綿星の助言に従ったまでだ。そもそも僕は時間に極端に敏感だ。待ち合わせというものはそもそも体験がないのだけど、どんな用事でも必ず10分か15分は早く行く。だから、少々心が焦りっぱなしだ。
それよりも、ここに来るまでの体験に疲弊しまくっていた。何しろ旧約聖書のモーゼよろしく、人々が道を空けるのだ。そして例外なく背中からの痛い視線が突き刺さる。そして多分なんかのスカウトなんだろうけど、50メートルに一度は何者かが近づいてくる。綿星にレッスンされた目つきで見据えると、今のところ完璧に撃退できた。綿星いわく、「極端な美貌は暴力なのよ」というのは本当のようだ。
車窓に流れる景色の夕暮れの紅が輝き、詩音の瞳に映り込み、燃えている。
「これから郁夫と会う」という事実に胸は高鳴るんだけど、周囲の空気が、そんな詩音の胸の苦しさを自覚させないでいる。
電車の中でさえ、満員だというのに周囲5メートルは誰も近寄って来なかった。
綿星のレッスンはいたって簡単なものだった。
「ようするにツンデレね。寄ってきて欲しくなければ、眼を少し細めて斜めに下目使いに。そう、そんな感じ。腰に手を掛けると効果は倍増するわ。でもね、彼と逢った時は『ふにゃっ』って感じで愛らしく。う〜んもうちょっと笑ってもいいかも」手を取り足を取りレクチャーする綿星はとても真面目だった。
しかし、なんであいつはあんなに人間関係強いんだろう? 人間関係ほとんど無いのにねえ。女というものの懐はそれほどまでに深いものなのだろうか。だとしたら、僕にはとても自信がない。
郁夫はすぐ見つかった。何しろハチ公像に貼り付くようにしていたのだから。
彼は不埒にも煙草をくわえていた。しかも細身の黒いスーツ姿で。多分今日のイベントのために「黒足のサンジ」を気取ったのかも知れない。笑っちゃうね。
足を進めるたびに、背中の水銀灯の影が短くなって来る。つまり、それだけ僕が明るくはっきりと見えるようになる。ネオンサインの明滅が、僕を銀幕のスターのように飾りたてる。
雑踏が見る見る切り開かれた。郁夫は僕を見ると、やはり同じように信じられないほど眼を見開き、口から火の付いていない煙草を取り落とした。(ここだ)と僕は心に決める。
僕に出来る限りの最高の笑みを満面に浮かべ、郁夫に歩み寄った。ついでにちょっと首など傾げる。左耳のダイアモンドのピアスが燦然と輝いた。伝説の「フランシーヌ」。それが今の僕だ。しなやかな身体の流麗なラインとCGでレンダリングしたようなこの世の物でない超絶の美貌。魂を飲み込むような深く光る大きな瞳と桜のような唇。完璧な白磁の肌、全てが炎のように燃え上がり、都会のネオンが霞むほどに僕は輝いていた。
絶対零度で凍結されたような郁夫に、僕は艶然と囁く。それもちょっと背伸びして、耳元で。
「待たせちゃって、ごめんね」
郁夫が解凍されるまで随分時間がかかった。