僕は14角形-11
「ささ、こちらへどうぞ、天羽君」
大きめの樫木のテーブルには、可愛らしい布のキャップを被せた紅茶のポットが見えるけど、なんだかマイセンくさい。薦められた椅子は意外と小さめの樫木のもので、装飾は見あたらないが、素晴らしく座り心地が良かった。
「今日は男の子が来るからって、ガトー・ショコラにしたの。お腹すいているでしょ」
「いいや、全然空いておりませんが。出来ればコニャックを」
いちごは楽しそうに笑う。やっぱりこいつ、兎だ。
「面白い冗談を言うのね、天羽君って。」
「コニャックならクルバージェでもマーテルでも、無い物はないぞ」
突然、左壁に沿ったベンチに座った老人が見事なバリトンを響かせた。
「伊集院、ブ・ラ・ドールをこの若いのに注いでやってくれ。」
「やめてよ、お爺ちゃんたら。今日はお茶会なのに。」いちごがふくれっ面をして老人を睨むが、老人はあさっての方向を見ていた。
「ごめんなさいね、お爺ちゃん、眼がね。」
執事の伊集院がいつの間にか、磨き抜かれたブランデーグラスに丁重に琥珀色の液体を流し込んでいる。その黒い艶消しの瓶は、なにかそれだけで匂い立つような迫力を持っていた。
「一流のコニャックは漢の飲み物じゃ。今度の子はなかなか良さそうじゃな。一本芯が入っておる。ここに来る輩はどうも、小さい、小さい」
詩音はグラスの中で鼻を泳がせて、驚愕した。なんだこれは。限りない豊潤と夢幻へ誘うような香り。一口、舐めてみる。一瞬で腔内に薔薇の香りが広がった。同時に指の先までが暖かかくなる。
「CTの造影剤みたいですな」老人はかかか、と笑った。
「そんな表現をしたのは君が初めてだよ、天羽君。実に面白い」
「えっと、それなんですが」
詩音は壁に掛けられた渋い赤色をした服を着た肖像画を指さした。
「それって、レンブラントの描いたキリストですね。ニューヨークのハイド・コレクションでしたっけ。複製にしちゃ良くできてますね」
「うむ、1657年から1661年の間に描かれたらしい。わしはごてごてしたのが嫌いでな。これは良い出来だ。気に入っておる。まあ──もう見ることかはかなわんがな。ふむ、趣味もかなりな物じゃな」
「お終いお終いお終────い!お爺ちゃんには天羽君同席させたからもういいでしょ。約束は守ったんだから、後は私の時間よ」
「ふむ、残念じゃ。そうそう、そいつはショコラとも相性が良いぞ」老人は執事の伊集院に抱えられるようにして立ち上がった。
「ま、ニューヨークに飾らせる物を作る方が金がかかったわい」
「はい?」
あっけにとられる詩音を後にして、執事の伊集院と老人がドアを出ていった。
「お爺ちゃんは目が不自由と。そゆこと?」
「昔から片眼が不自由だったんだけどね。やっぱ年でね」
いちごは思い出したように満面の微笑みを浮かべた。
「さあ食べて。うちのスイーツのシェフはわざわざスイスのバーゼルから引っこ抜いたんだから」
スイーツのシェフって、他にも和食のシェフとか中華のシェフとか。もしかしたらイタリアンとかフレンチも別か?僕はいかにも重厚で気品に溢れたガトー・ショコラをうんざりと眺めた。
「あー、そのコニャック、お爺ちゃんの特別ね。一口10万円ってとこかしら」
吹き出しそうになったコニャックを努力と根性と気合いで胃袋に押し込める。
「前に出したのが三つ前の首相かなあ?ま、とにかくお茶会なんだから、食べて」
僕はおそるおそるガトー・ショコラを一切れ口にした。すると、天使が頭上でラッパを吹いてしまった。コニャックで潤んだ口の中に、華麗な音楽が鳴り響く。もともと僅かに流れていたクラシックと変拍子を刻んだ。
「この曲知っているの?」
「ニーベルンゲンの指輪。それが今「カンタータ・パストラーレ」と混ざり合って最悪」
「曲、変えますか?」
「ああ、レッド・ツェッペリンの「ブラック・ドッグ」を大音響で」
変だ。睡眠誘導剤を飲んでも平気な僕が、眠くなっている。
白い漆喰の天井が歪んで回り始めた。んな、馬鹿な。コニャックなんて、ほとんど飲んでないのに。
レッド・レッド・レッド。太平洋第三艦隊に補足された。レッド・レッド・レッド。懸垂型レーダー多数に補足。対艦攻撃オプションは全て失われた。レッド……浮力が得られない。地上レーダー、潜望鏡全ての機関の油圧が減圧。原子炉緊急停止!