その瞳にうつるなら-1
――美香は、たぶん、最低な女だ。
きちんと閉められていない赤いカーテンの隙間から確かな朝の光がもれてくる。美香の部屋の壁ぎわに置かれたシングルのパイプベッドが、上半身を軽く起こしただけでギシッという悲鳴をあげた。
「拓巳、起きた？」
声のする方に頭を向けると、すでに身だしなみを整えた美香が携帯を操作しながらソファに腰をおろしていた。
「ん、メールしてんの？」
半身を起こしながら、欠伸をする。
「うん」
美香の返事の直後に『パコッ』という携帯を閉じる音が聞こえた。
少しの沈黙のあと、美香は立ち上がりカーテンを開けてキッチンの方へ歩いていった。
「ごはん、食べるでしょ？」
やわらかな笑顔を浮かべて、あまり得意ではない料理をする美香の姿を拓巳は愛しいと感じる。
時刻は午前９時をまわっていて、ふと、今日の大学の講義のことが頭をよぎったが午後から始まることを思い出し安堵する。
拓巳はとりあえず洗顔だけすませ、部屋の中央に置かれたテーブルの横に腰をおろし、テレビの情報番組をぼうっと見ていた。
ルーヴル美術館の巨匠の作品達が遥々日本にやってきているらしく、たまには美香と文化的デートでもしたいな、なんていうことを寝呆けた頭で考える。
番組がコマーシャルを挟んだところで、拓巳は再び欠伸をし、背後のソファに片腕を乗せながら寄り掛かった。同時に、肘に無機質な物体があたるのを感じたが、見なくてもそれは美香の携帯であることが知れた。
一枚のドアの向こうから、包丁がまな板を叩く、ぎこちない音が聞こえてくる。
拓巳は、少し考えたあと後ろを振り返った。
肘にあたる美香の白い携帯が何かを主張しているかのように感じる。
一度向き直り、テレビに視線を遣る。けれど意識だけは肘に集中している。
美香の携帯。
不倫という不毛の恋に身を浸し、心を削る美香の本心。
自分への気持ち、田村という男への想い。
田村と交わされる互いの情報。
――知りたい
いけないとは知りつつ、拓巳の手は、その白い秘密の玉手箱へとのびる。
「ねぇ」
ドア越しの美香の急な呼び掛けに、拓巳の体は一瞬大きく跳ねた。
「なに？」
急いで手を引っ込め、咳払いをして平静を装う。動悸が激しい。
「ほうれん草、食べられる？」
「あ、うん、好きだよ」
なんだそんなことか、とつぶやくとともに拓巳は安堵の息をついた。
少しの未練はあるが、もう美香の携帯を見ようとは思わなかった。未遂だが、罪悪感を感じる。
程なくして、美香がトレイに一人分の食事を乗せて運んできた。
「はい、どうぞ」
「さんきゅ。美香の分は？」
「作ってたら、なんか気分だけでお腹いっぱい。…お味噌汁だけ飲もうかな」
美香はにこにこと笑いながらキッチンへと立った。
拓巳はその姿を目で追ったあと、テーブルに配膳された美香手作りの朝食に視線を遣った。
解凍した冷凍ご飯以外はすべて調理したようだ。
豆腐とネギの味噌汁と、鰹節をまぶしたほうれん草のおひたし、梅で味付けされた焼き魚は、この間美香が買ってきた鯖だろう。
「…和食か」
拓巳は、心の中で嫌いじゃないけどねとつぶやいた。美香に朝食をつくってもらえること自体が、とても嬉しいことなのだ。