憂鬱な果実-1
「櫻井先生、遅くなりました」
とくに会う時間を指定されていたわけでもなかったが、遥香はとりあえずそう断った。
「うん、いいよ。麻生さんも座りなさい」
櫻井に椅子を勧められるまま遥香も腰掛けた。夕方のこの時間帯に図書室を利用する人はそれほど多くない。
櫻井はおもむろに分厚いファイルを取り出してきて、「是非とも君に見せたいものがある」と言ってそれを机の上に広げた。
「これ、修学旅行の時の写真ですよね?」
遥香はアーモンド型の円(つぶ)らな瞳をきらきらと輝かせ、ファイルに綴じられた写真を横からのぞき込んだ。修学旅行の行き先は東京だった。
「麻生さんは確か三年A組の学級委員だったね?」
「はい」
「じつはね、ここにある写真を選別してアルバムを作ろうかと思っているのだよ」
「櫻井先生が、ですか?」
「まあそうなんだが、僕一人でやるには少々しんどい作業でね。それで麻生さんを呼んだというわけなんだ」
じろり、と櫻井の視線が遥香の横顔に注がれる。クラスのことは学級委員が率先してやるべきだ、とでも言いたいらしい。
「だったら、彼にも手伝ってもらったほうがいいですよね?」
遥香は、もう一人の学級委員である大森俊介(おおもりしゅんすけ)の名前を出してみた。今の三年A組を仕切っているのは彼だと言っても過言ではないからだ。
「いや、その必要はない」
櫻井は冷たく言った。むしろ極秘にしてもらいたい、とも。
その理由を遥香がたずねると、整髪料の匂いをぷんぷん漂わせる冴えない教師は、「今回のことはサプライズにしたいんだ」と似合わない台詞を口にした。
まさかこの人物からサプライズなんて言葉が出てくるとは、遥香は少し意外な気がした。見た目も立ち居振る舞いも時代遅れなので、一部の生徒からは『シーラカンス』の愛称で呼ばれているほどだ。言われてみればどことなく魚っぽい。
「そういうわけだから、アルバム制作のことはみんなには内緒にしておいてもらいたい」
「家族にもですか?」
「もちろんだとも」
「わかりました」