いつわり-1
2007年10月31日 水曜日 晴れ
あれから幾つかの季節が過ぎ去り、今年もハロウィンを迎える。
恵利子はすっかり“おとこ”の味を覚え、絶頂に達すると淫猥な言葉すら口にするようになっていた。
もちろん男は性欲をただ満たすだけでなく、瞼から足の指つけ根に至るまで入念な愛撫をしてきた。
それは男にとって都合の悪い記憶が戻ってしまっても、恵利子に打ち込んだ楔が決して外れることない枷へと形を変える。
それでも恵利子から清らかさが失われないのは、生来の素養か厳しい教育方針と育ちの良さ故か。
シックな色遣いのワンピースに身を包んだ恵利子は、通い慣れた高校と同じ駅で下車した。
教えられた場所は付属高校の大学と目と鼻の先にあるマンションで、オートロックゲートをくぐると新しく清潔なエントランスがひろがっている。
部屋番号からしても明らかに最上階で、その意外な場所に恵利子は最初、からかわれているのかと思った。
エレベーターが目的階に着くと、男は嬉しそうな笑顔でドアを開け待ってくれていた。
17歳の誕生日を15日後に控えた恵利子は、ハロウィンを一緒に過ごしたいと甘える声で電話をかけたのだ。
あの一年前のハロウィンの別れ際、どちらからともなく二人は携帯の番号を交換していた。
広いリビングルームには恵利子の好きなピンク色の薔薇が、趣味の良い花瓶に生けられ出迎えてくれる。
『少し早いけど十七歳の誕生日おめでとう。エリちゃん』
男はごく自然にそう言うと、小さな包みを渡してくれる。
懐かしくも、その呼び方にはまだ違和感があり、恵利子は少しだけ神妙な表情になった。
もちろん目前の男性の身体に、あの時の“お兄ちゃん”が宿っているなどと本気で思っていない。
……だが、心の片隅でそれを願い信じていたかったのも事実だ。
≪ハロウィンの一日は、この世とあの世がもっとも近づく特別な日。悪い精霊や魔女が街に溢れ…… ≫
恵利子は自らが創作し、双子の妹たちに語り聞かせた話を思い出す。
そしてそのベースとなった神話を想い起こすのだった。
≪ハロウィンの一日は、この世とあの世がもっとも近づく特別な日。この“夜”は夏の終わりを意味し冬の始まりでもあり、彷徨う気持ちが懐かしい家族たちの元を訪ねて…… ≫
それでも恵利子は単なる偶然を、幼き頃知った伝説と重ね合わせ気持ちを温める。
『ところでエリちゃん、日本では女性が十六歳になると…… 本当は去年に渡したかったんだけど、流石にまだ受け取ってもらえないかと思って…… 』
「えっ?!」
包みを開ける白く細い指先が、心なしか戸惑をみせた。
『ごめん、驚かせて』
「ふふっ」
聡い恵利子は箱の形状から察していたが、あえて口にはせず顔を赤らめながら微笑んだ。
(さすがに指輪は無いと思ったけど、想像通りのネックレス。それもプラチナの素敵なデザイン。でも…… まだ少し、これは重い……かな?)
そして心中にて、こう付けくわえた。
女性から男性にネクタイの贈り物、男性から女性へのネックレスの意味は恵利子の知るところでもある。
『良かったら、付けて見せてくれないかな?』
恵利子よりひとまわり以上年上の男性が、はにかみながら願う。
その顔に恵利子の心は、想いを寄せていた少年の笑顔を幻視する。
「私がこれを付けたら…… もう、逃がさないってこと?」
『まだ十六の恵利子にはこの気持ち、ちょっと重いかな? でも、これが嘘偽りない本当の気持ち。恵利子に対する想い。実はこのマンションもその一部』
「もうすぐ十七です。 ……えっ、……それって?」
まだ十六と言うフレーズに少し拗ねる恵利子であったが、遅れて耳に届いた言葉に慌てて向き直る。
『ここからだったら恵利子が通う高校も、進学予定の大学へも徒歩圏内。もちろん、恵利子が気が向いた時だけ…… ほんのちょっと時間でも良いんだ。今までみたいに酷いことも、無理なことも決して言わない。嫌われるのが怖いんだ』
「怖い?」
『ずっと憧れて、遠くから見ていた。恵利子に恋い焦がれていた。でも今はそれだけじゃなく、好きで好きでとても愛おしい。大切にしたい、二度と放したくない。恵利子のことを考えただけで…… だから嫌われるのが、怖くなったんだ』
「うれしい。でも…… まだ気持ちの整理が済んでなくて。どう受け止めたら良いのか…… それでも良ければ、今まで通り…… 」
最後の一文を意図せず付けくわえてしまったことに、恵利子は気づかされると頬を朱に染めて俯く。
「ありがとう」
男は短く告げた。
それから二人は今までの時間を取り戻すように、会話を楽しみながらゆっくり食事をした。
簡易的ではあるがコース料理に近いものが、男によって作られたことを知ると恵利子は驚きを隠さなかった。
『一人暮らしが長いから、炊事選択なんでもござれって訳さ』
「頼もしいんですね」
『恵利子は僕にとっての“お姫様”だからね! 恵利子さえ良ければ、ここから学校に通ってもらっても…… 』
「さすがにそれは…… でも、今日はゆっくり…… 」
今日、恵利子は生まれて初めて仮病を使い、学校を休んだ。
この日、この時間を持つために……
それから映画をひとつ、リビングで紅茶の香りを楽しみながら鑑賞する。
ゆっくりとした時間が二人の間で流れていくことを、恵利子は心地よく感じていた。
男性が“今まで通り…… ”に急変することなく、自分を大切に扱ってくれることに感謝しながら。
それでも……