〈戻れない夏〉-10
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(この先に宴会場があるのね……)
階段を下りた麻衣は、どうも真っ直ぐ向こうに延びる廊下が気になっていた。
旅館のフロントを据えた丁の字の廊下を左に曲がれば浴場なのに、どうもそちらには足が向かない。
なぜ好奇心が擽られるのか分からないままに、麻衣はその廊下をゆっくりと直進していく。
(鶴の間と…駿馬の間……)
廊下の左側の壁にだけ一定間隔で襖が並び、その頭上の欅の板にはそれぞれに〈鶴の間〉とか〈駿馬の間〉とか彫られていた。
部屋の数は計五部屋あり、その端の部屋の数メートル先から廊下は左に直角に曲がっている。
位置から計算するに、あの老朽して使われていない離れの宴会場に続く廊下のようだ。
ますます好奇心に駈られた麻衣は廊下の奥に進み、いよいよその曲がり角にまで来た。
『白岩様、そちらには入れませんよ?』
声に振り返ると、そこにはフロントスタッフの中原が居た。
穏やかな笑顔のままで、やんわりと麻衣を諌める。
「すみません、つい……あの、私達の夕食の部屋って…!?」
中原の背後となった鶴の間の襖が音も無く開いた……直ぐに中から同じ浴衣を着た数人の男が現れ、ゆっくりと麻衣の方に歩いてくる……。
(あ、あれ?お客さんは私達だけって女将さんが…?)
麻衣はその男性客御一行に異様さを感じた。
だがそれは「居るはずがない」という前提が崩れた事から来る動揺が引き起こした感覚なのだと〈錯覚〉した麻衣は、特に注意を払うでもなく中原と話を続けていた。
『こちらの《昇天の間》でございます。ところで白岩様はご入浴でございますか?お友達はいらしてないようですが……?』
「今は私だけ…!!??」
いきなり一人の男性客が中原と麻衣の間に割り込んできた……麻衣は突然の事に驚いて思わず後退りする……と、背中に“何か”がドスンとぶつかった刹那、思いもよらない《事態》が発生した……。
「ん"ん"ッ!!??ん"も"お"ぉ"ッ!!」
突如として麻衣の眼前に現れた広げられた掌は、強力な圧着力を発揮させて視界と呼吸と悲鳴を奪い取った。
あまりの突発的な出来事にパニックに陥ってしまった麻衣は、天地の方向すら分からなくなる浮遊感に襲われ、そして身体は加速を伴う《移動》を感じた……。
……鶴の間の襖は閉まっていた……。
中からは壁や床を蹴るようなドンドンという音と、言語不明な呻き声が微かに漏れてきていた。
『どうぞ、ごゆるりと……』
まるで鳥獣のような麻衣の叫び声は、中原の耳には蚊の羽音程度の音量でしか届かない。
開けっ放しの玄関から入ってくる蝉の絶叫に掻き消される《悲鳴》は、階段を駆け上がれるだけの力すら持ってはいなかった……。