『空遊魚〜rainy day〜』-3
アジサイの咲いた道を、僕らは並んで歩いた。雨のよく似合う、紫のアジサイ。僕の小さな傘からはみ出した鳥かごの中の魚たちは、なんとか雨に濡れないようにと、僕に近いほうに固まっている。
行き先は分かっていた。
墓地だ。
「おかしいね。もうすぐあの人のところに行けるって分かっているのに、そうすれば好きなだけ話をすることだってできるかもしれないのに。でも、何故だか生きているうちに一度会いに行きたいの。」
「分かります。…かもしれない、じゃ不確かだから。確かな、生のうちに。」
先輩は少し笑った。
「相変わらず現実的な考え方をするのね。」
雨宮先輩は、彼のことについて、ゆっくりと話し始めた。今は亡き恋人のことを。
「あの人は、私にとって太陽みたいな人だった。雲が覆っていたって、雨が降っていたって、全部晴らしてくれた。ねえ、君もよく分かってると思うけど、その仕事って、決して楽しいものじゃないし、むしろ悲しいことや、やりきれないことばかりでしょう。でもそんな全部から、あの人は救ってくれてたの。」
そこで彼女は、ふっと一息ついた。
「二年前、ですよね。」
「そう?」
「その時、その人の死を、宣告したのが、あなただった。」
沈黙。
雨がその隙間を埋めようと傘を鳴らし続けた。
何故だか、この雨は永遠に止まないような気がした。彼女の中の時間が、二年前からほとんど動いていないのと同じように。
もう日も暮れてくる時間になる。雨の日の夕暮れ時は嫌いだ。色もなく、ただ光が静かに弱まっていき、代わりに闇が染み込んでくる。その様は、まるで緩やかに死に行く老人のようだ。
墓地に着いたとき、もうほとんど昼はその覇権を夜に譲り渡しかけていた。
雨宮先輩は持っていた傘を地面に落とし、雨に濡れて鈍く光る墓石を、両手で包み込むように触れた。恋人を慈しむように。
(ごめんね)
彼女の唇が、そう動いたように見えた。
どうしてだろう。僕は思った。
どうして僕はこの場にいるのだろう。
彼女は、泣いているようだった。でも、彼女の顔をつたうのが、涙なのか雨なのか識別することはできなかった。
僕は持っている傘を彼女の上にそっと差し出した。
鳥かごの中の魚は雨に打たれ、おびえたように騒ぎまわる。
「ねえ雨宮さん。」
僕は彼女に何か言おうとした。けれど、その言葉がのどを通ってくるまでの間に、僕はその言葉を忘れてしまっていた。
彼女は泣き続け、僕は傘を掲げたままじっと突っ立っていた。
「ごめんね。」
今度はハッキリとそう言った。
「もういいよ、付き合わせて、ごめんね。」
それは僕に向けられた言葉だった。
僕は落ちている傘を拾い上げ、彼女の手の持たせた。
いつの間にか地面に置いていた鳥かごを持って、今度はそれを雨から守るようにして傘を持った。
彼女を背にして、何歩か歩いた。でも、どうしても振り向かないわけにいかなかった。
結局僕は引き返して、彼女の隣に立った。彼女は傘をだらりと下に垂らして雨を浴びている。僕はまた自分の傘を彼女の上に差し出し、鳥かごを地面に置いた。
「やっぱりまだここに居ます。せめて、この雨が止むまで。」
彼女は寂しそうに笑い
「ありがとう」
と言った。
僕は、その時が来るまで、ずっとそばに居ようと決めた。
空を泳ぐ魚は水を嫌い、鳥かごの中でうなだれる。
風に憧れた小さな翼は故郷を忘れ、もう永遠に水中を飛びまわることはできない。
哀れな進化の過程に、この小さな目はどんな希望を見出したのだろうか。
この悲しい魚は、きっと僕らそのものだ。
涙さえ、流れることは無い。