優しい椅子-1
「生物が生きる目的は何だと思う？悠里（ゆうり）君。」
悠里あゆかは俺のお気に入りの教え子だ。
ロシア人とのクォーターである彼女は、青い瞳、白黒グレーのメッシュの髪をしている。肌も陶器の様に白く滑らかだ。苗字の”悠里”もおそらくロシア系の”ユーリ”を日本語表記したものだろう。
しかし、ちょうど肩にかかるくらいのサラサラの髪に包まれた顔立ちは、凹凸の浅い東洋人特有のもので、つぶらな瞳に残るあどけなさと相まって、東洋人のコスプレイヤーが西洋人の大人の女のキャラクターを演じているかのようなアンバランスでミスマッチな魅力を感じさせる。
また、無垢で無邪気で健気で天真爛漫で天然な彼女は、何をされても怒る気になれない愛らしさで男子たちに人気があるらしい。
「生物が生きる目的…。えっと…。向上心をもって努力を重ね、よりよい人生を…あれれ？生物？」
「いや、構わないよ。人間を例にして答えてくれてもいいから。」
「あ、はい。」
彼女は誰もが知る名門私立女子学園の制服みたいな服装をいつもしているが、我校に制服は無い。つまり私服だ。
なぜ既に高校を卒業しているのにそんなかっこうをしているの、と尋ねたことがある。小さな頃からずっとあこがれていた学園の制服を着たかったけど、入試すら受けさせてもらえなくてストレスが溜まったからです、だそうだ。まあ、その感じは分からなくもない。
ポヨンと天然全開のあゆかだが、けっして頭は悪くない。
実際、国内トップレベルの評価を受けている我校において、常に一ケタ台の成績を収めている。
また、探求心も旺盛で、いま俺の特別講義を受けているのも、より多くを学びたいという意欲の表れだろう。
だが、その分世間を知らないところがあって、悪意ある者の格好のターゲットになってしまわないかと、担任の俺としてはいつもヒヤヒヤしている。
いま二人が居るのは、比較的小さな教室だ。１０人も生徒が座れば俺の立つところが無くなるくらいの。だが、大型モニタなどの設備は整っている。具体的な資料を見せながら、ピンポイントな講義を開くには丁度いい。
俺の前には講師用の机があり、その上には１０．１インチのタブレット端末が二つスタンドに乗せて置いてある。そのうち一つは壁に設置してある５０インチモニタのクローンディスプレイ、もう一つは各種操作用だ。これらの機材のおかげで、いちいち後ろを振り返らずに画面の一部をポイントしたり書き込みして見せたり出来る。
二人は机を挟んで向かい合わせに座っている。一対一の講義ではごく普通の位置関係だと言えるだろう。
しかし、彼女が座っている椅子は少々変わっている。
構造的にはごく普通の折り畳みパイプ椅子なのだが、座面が透明な強化プラスチックで出来ている。そして、左右両端と中央部分が盛り上がっていて、お尻と太腿を包み込むような形状をしている。
実はこの椅子の座面は俺の手作りだ。型さえ作ってしまえば後は材料を流し込んで固まるのを待つだけなので、意外に簡単に出来る。可愛い教え子たちの為に、数種類の型で何個か作ってある。今あゆかが座っているのは、それらの中でも特別に中央の盛り上がりが高く細いものだ。
「悪くない答えだ。それに、ある意味正しい。しかし残念ながら、それは表面的な理由でしかない。例えば向上心がなく、努力もしない人間が殺されそうになったらどうするだろう？」
「逃げる？」
「正解。別によりよい人生、なんて考えていなくても生き延びようとするんだよ、生物は。」
「はあ…。」
今ひとつピンと来ないようだ。
「つまりね。生きる目的、それは生きること。」
あゆかは、さらにワケ分からんという顔で大きな目をパチクリさせている。
「言い換えよう。もし、生きようとする性質を持っていない生物がいたとしたら、どうなる？」
目を空中に泳がせて一生懸命考えている。そんな仕草も可愛いらしい。
「…体を維持しようと思わないから、食べないし飲まない？」
「うん。」
「怪我をしそうになっても避けない？」
「そうそう。」
「殺されそうになっても逃げない？」
「その通り。」
「あ、死んじゃう！」
「正解。生きようとしない生物は死ぬ。逆に言えば、生きようとする性質を持っているのが生物なんだ。」
「そっか！」
あゆかは手に持った自分のタブレット端末にさらさらっとスタイラスを走らせ、メモをとった。
「もう一歩踏み込むなら、自己を存続させようとする性質を持ち続けた種のみが現在に至るまで生き延びている、という事が言えるだろう。」
キラキラした目で俺を見ている。知能の高い彼女にとっては大した内容じゃないはずだが、視点の取り方が新鮮だったのかもしれない。
「だけどここで問題が起きる。」
あゆかは顎に人差し指を当て、首を傾げた。これが、男子たちを撃墜するあゆかポーズ。
「何ですか？」
俺はもったいぶるようにじっとあゆかを見つめた。期待を込めて見返してくる顔が眩しい。