9.接近-1
――それから9年の歳月が流れた。
日曜日の晩。英明と美穂、真琴の家族は揃って食卓を囲んでいた。
「ああ、腰が痛い」
そう言いながら英明は自分の背中に手を当てた。
「なんで? お父さん」横に座った娘の真琴が訊いた。
「真琴は遊びに行ってて知らないかもしれないけど、お父さんずっと庭の手入れをしてたんだよ」
美穂が言うと、真琴はさらりと、お疲れ様でしたあ、と言って父親の腰のあたりをぱんぱんと叩いた。
「マッサージしてあげようか、とか少しは気の利いたことが言えないのか? おまえは」
英明は軽く責めるように娘を睨んだが、真琴は何食わぬ顔で皿に残ったニンジンのかけらをフォークで刺して口に入れた。
「あたし何度もその辺でやめたら、って言ったのに」
美穂が困ったような顔でそう言って、急須にポットから湯を注ぎ入れた。
「やり始めるととことんまでやらなきゃ気が済まないもんね、お父さんって」
「その通り」英明は娘にフォローされ嬉しそうに言った。
「自分の歳のことも考えたら?」美穂が言った。
英明は口を尖らせて言った。「いいじゃないか、庭もきれいになったんだし」
「確かにね。けっこう広いから一日掛かりよね。お疲れ様でしたお父さん」
美穂はわざとらしくそう言って笑った。
「家を建てる時、もうちょっとゆとりを持って大きくしとくんだったなあ……」
それを聞いた真琴が目を輝かせながら言った。
「ねえねえ、今からでも家を広くしようよ、庭の方にもう一部屋作るとか。そうすればお父さんが腰を痛くすることもなくなるしさ」
「経済的なゆとりのことも考えてね、真琴」
「気遣ってくれてありがとうよ、真琴」英明は目を細めて娘の肩に手を置いた。
「あなたを気遣ったように聞こえた?」
美穂はいたずらっぽく言って、三つの湯飲みに茶を注いだ。
英明は茶を一口すすった後、美穂に顔を向けた。
「あのさ、思うんだけど」
「どうしたの?」美穂は空いた食器を重ねる手を止めて、夫に目を向けた。
「真琴に家庭教師をつけようかと思ってるんだけど。どうかな? 中学生になったことだし、受験のことも考えて」
英明の横でデザートのプリンをほじくっていた真琴が、あからさまに嫌そうな顔で隣の父親を見上げた。
「えー、嫌だよ、あたし」
「本人はこう言ってるけど?」美穂は笑いながら食器をキッチンに運んだ。
英明は娘の方を向き直ってにこにこしながら言った。
「いやいや、別に無理矢理勉強させようって思ってるわけじゃなくてさ、誠也と時々話がしたいと思ってるんだよ。あいつ予備校に勤めてるから丁度いいじゃないか」
シンク内に重ねた皿に水を掛けていた美穂の手の動きが止まった。そして彼女は蛇口のレバーを下げて水を止めた。
「え? 誠也にいちゃん? 家に来るの? 毎週? あたしの家庭教師で?」
色めき立った真琴の背中を撫でながら英明は笑った。
「教育のプロだぞ、真琴。もう誠也も予備校に勤め始めて10年。僕たち教員よりかえって教え方はうまいんじゃないかな」
「そっかー」真琴はにこにこ笑いながらプリンを口に運んだ。「だったらOK」
「あいつも一人になってから、その後浮いた話もないだろ? もう35になってるんだし、誰かを世話してやるとまではいかなくても、話だけでも聞いてやりたいと思ってさ」
美穂は食卓に背を向けたまま顔を半分だけ振り向かせて言った。
「彼から何か相談があったの? あなたに」
「いや、僕の勝手な思いつき」英明は笑った。そして娘に目を向けた。「嬉しいか? 真琴」
「嬉しい! あたし誠也にいちゃん大好きだもん!」真琴は座っている椅子を蹴倒さんばかりに狂喜した。
あはは、と大声で笑って、英明は美穂に向かって言った。
「いいだろ? 週に一度程度」
再びシンクに向き直りスポンジを手に取った美穂は、身体の芯から熱くこみ上げるものが全身に広がっていく感覚に囚われていた。
実は、美穂と誠也はあれから度々逢瀬を重ねていた。エリと別れて一人暮らしを始めた誠也は予備校の講師をずっと務めていたので、彼が夜の時間帯に授業が入っている週の昼下がりに逢い、熱く抱き合い、お互いの心をとろけさせ、愛し合っていた。もちろんそのことは、今目の前にいる家族は知らない。