7.結婚生活-2
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年が明けた。英明と美穂は連れだって英明の実家の増岡家を訪ねた。
「明けましておめでとうございます」
美穂は英明の両親に玄関先で頭を下げた。
「いらっしゃい、待ってたのよ、さあ上がって頂戴」
英明の母親良枝は64歳。英明と同じように長く教職にあり、公立中学校を教頭まで務め、定年後は再任用を希望し、今は地元K市内の中学校の特別支援学級の担任をしている。父親道明の方は若い頃から勤めているすずかけ二丁目の『志賀工務店』に66になった今も通っている。腕の良い大工として若い職人たちの先頭に立ってばりばり働いている。
「誠(せい)ちゃんももう来てるから、さっそく食事にしましょう」
良枝は上機嫌でそう言って、英明たちを上がらせるとすぐに台所に駆け込んだ。
義母良枝が『誠ちゃん』と呼んだのは、彼女の孫にあたる誠也のことだった。美穂が座敷の襖を開けると、掃き出し窓から差し込む陽を背中に浴びて誠也が座卓に向かって座っているのが真っ先に目に入った。彼は一瞬美穂を見て、すぐに目をそらした。
「あんまり何も用意できてないけど、ゆっくりしていってね」
瓶ビールを両手に持ってきた良枝がそれをテーブルに置くと、誠也はさっそく近くにあった栓抜きを手にとって一本開け、はす向かいに座った英明に勧めた。「叔父さん、どうぞ」
「ありがとう。誠也にもなかなか会えないな。こんな時しか」
「そうですね」誠也は笑った。
誠也はその妻を連れてきてはいないようだった。結婚していれば正月など実家を訪ねる時には夫婦で来るのが世間の常識なのに、誠也の場合はそうではなかった。やはり彼の妻というのはそういう人なんだろうか、それとも退っ引きならない用事があってここに来ていないのか……。
美穂は良枝について部屋を出た。そして一緒に台所に立った。
「あらあら、美穂さん、座ってて頂戴、お客さんなんだから」
「いえ、お義母さん、手伝います。あたしも増岡家の一員に加えてもらったんですから」
「悪いわねえ、じゃあそこにある取り皿を持って行ってもらえる?」
「はい」
美穂はできるだけ誠也を見ないようにしたかった。英明と結婚して、一緒に暮らし始めて時間が経てば誠也のことは自然に忘れていくだろうと思っていた。しかし、さっき座敷に足を踏み入れ、彼と目が合った時、その一瞬の出来事で美穂の心と身体は如実に反応した。かつて親友のマユミが言った『そう簡単にいくの?』という言葉が何度も美穂の頭の中で反芻され、美穂の心はすでにかき乱されていたのだった。
正月とは言っても、ここに集っているのは増岡家の道明、良枝のホスト夫婦の他には英明と自分と誠也というたった5人の少人数だ。会話も当然全員参加になってしまう。一つの座卓を囲んでいるのに、美穂が図らずも真向かいに座った誠也と口を利かないのは逆に不自然なことだった。
「子供はまだ? 美穂さん」
良枝が不意に問いかけてきた。
「いやいや、おまえ、」横に座って焼酎を飲んでいた道明がすぐに口を挟んだ。「まだ結婚して二か月も経ってねえんだぞ、焦り過ぎじゃねえのかい?」
「だって、英明ももう34よ、早い方が子供のためにはいいのよ」
学校に勤め、いろんな家庭で育った子供たちと接してきたその良枝の言葉にはなかなかの重みが感じられた。
「そう慌てなくても子は授かりもんだ。おめえが気に病んでもしかたねえよ」
そう言って道明はお湯割りの焼酎をうまそうに飲んだ。
美穂の右横に座った英明は複雑な顔をしてビールを煽った。
「誠也君は今日は一人? 奥さんは?」
美穂は思い切って誠也に話を振ってみた。その瞬間、部屋の空気が一気に淀んだ。機関銃のようにのべつしゃべり続けていた良枝は水を打ったように黙り込み、道明は一瞬手を止めた後、眉間に皺を寄せて焼酎のグラスを口に運んだ。
「ああ、彼女は自分の実家に行ってます。親に呼び出されたとかで……」
平静を装ったつもりだろうが、誠也は明らかに動揺していた。動揺と言うよりいたたまれない様子だった。腰をもぞもぞと動かして彼は座布団に座り直した。
美穂は激しく後悔した。この場では口にしてはならない話題だったのだ。
「飲んで」
美穂はそう言うのがやっとだった。瓶を傾け、誠也の持つグラスに少しぬるくなったビールを注いだ。
「親父は身体の調子はどうなんだ?」英明がわざとらしいぐらいの明るい声で父親道明に問いかけた。
「なんだ、身体の調子って。わしはどこも悪くねえぞ」
「だってもう66なんだろ? いろいろ気をつけないと」
「けっ、大きなお世話だ」
「もう、いつもこうなのよ」良枝が困ったように眉尻を下げた。「あたしも時々言うんだけどね、市の定期健康診断に連れてくのにも一苦労なんだから」
「じいちゃんは病院嫌いだからね」誠也が割って入った。
「どこも悪くねえのに医者なんか行くか」
自分の不用意な一言のせいで重く沈んでいた空気が元の正月らしいアットホームな雰囲気に戻ったことを美穂は感謝した。親戚内で話題にすることさえ憚られる程、誠也の妻の評判が良くないことがはっきりした。その時美穂は言いようのない無力感に苛まれていた。