4.出会い-3
「だからリンゴは、その豊かな栄養価とおいしさで、人を健康かつ幸せにしてくれる果物なんです」
「それが結論なんだね?」
満足そうにはあ、と一息ついて、ぬるくなった手元のコーヒーをごくごくと飲み干した誠也は、美穂を見て充実した顔でにっこりと笑った。
「ありがとう、とっても役に立つ話だった」
「ほんとに?」誠也は美穂を上目遣いで見ながら恐る恐る訊いた。「ほんとにそう思ったの? 美穂さん」
あははは、と美穂は大声で笑った。
「あれだけ大講義をぶっておいて、なに、その自信なさげな顔」
誠也は頭を掻いた。
「誠也君といると、ほんとに楽しい。時間を忘れちゃう。コーヒーお代わりする? 頼んであげようか?」
美穂はそう言ってホールスタッフを呼んだ。
二杯目のコーヒーが運ばれ、テーブルに置かれると、誠也は半分程になっていたアップルパイの一切れをフォークで刺した。それを口に持って行きかけて、彼は手の動きを止め、じっと美穂を見つめた。きゅっと口を結び、なぜか切なそうな目で、まっすぐに美穂を見つめた。
美穂はどきりとした。今まで誠也が見せたことのない瞳の色だったからだ。
だがそれはほんの一瞬のことだった。誠也は再び焦ったようにフォークを動かし、残りのアップルパイをあっという間に平らげた。
その時美穂の動悸はなぜか速くなっていた。胸の真ん中あたりがきゅうっという音を立て、身体の中心のわずかな部分が熱を持っているのに気づいた。向かいに座った元気な男子は、いつもの陽気さを取り戻していたが、美穂が見たあの切なげな表情はずっと瞼の裏に張り付いたままだった。
誠也はコーヒーカップを手に、美穂に目を向けた。彼女はその時、カップを持った彼の手の薬指に銀色に光るものを発見した。
「あ、誠也君って結婚してるんだ……」
その時美穂が至極残念そうな顔をしたのを美穂自身は気づかなかった。
「え?」誠也は動揺したようにカップをソーサーに戻し、握り拳を作った左手を覆い隠すように右手のひらで包み込んだ。「そ、そうです」
そして誠也も至極残念そうな顔をした。それには誠也本人も気づいていた。
「そうなんだ。てっきり独身とばかり……」
美穂は残っていたチーズケーキの最後の一切れを口に入れた。
誠也はしゅんとなって小さく言った。「すみません」
「なんで奥さんがいるのにあたしと二人で食事をしようなんて思ったのよ……」
美穂は拗ねたように言って、フォークを皿に戻した。
しばらく気まずい沈黙が続いた。
会話を再開したのは誠也だった。
「俺、あんまりうまくいってないんです、妻とは……」
「え?」
「たぶん妻は美穂さんと同い年ぐらいなんですけど、あ、お幾つですか? 美穂さん」
「24になったばかりよ八月生まれだから」
「じゃあほんとに同い年です。あの人、性格がきつくて、なんか……」
誠也が自分の妻のことを『あの人』と呼んだことで、彼とその結婚相手との距離を如実に感じた美穂だった。
「家にいても、精神的に閉じ込められてるって言うか……」
「閉じ込められてる?」
「別に嫉妬深いとか、過度に俺の行動に干渉してくるというわけじゃないんですけど、何て言うか、彼女の出す強い空気感に閉じ込められてる、そんな感じですかね」
「結婚したのはいつ?」
「20歳の時です。大学二年の秋でした」
「えっ?! 学生結婚? なれそめは?」
「彼女は大学のサークルの先輩で、副主将」
「へえ……何のサークル?」
「水泳です」
美穂はびっくりして思わず身を乗り出した。
「水泳やってたの? 誠也君。 あたしも高校時代は水泳部だったよ」
「え? ほんとに? どこの高校ですか?」誠也も身を乗り出して目を見開いた。
「『すずかけ商業』だよ。貴男も高校時代から泳いでたの?」
「はい。『すず商』だったら地元ですね。俺、隣のS市の高校だったから」
「もしかしたらその時大会で一緒になったこともあったかもね」
美穂は笑った。
誠也はテーブルを見つめて独り言のようにぽつりと呟いた。
「そこで美穂さんと出会いたかったな……」
美穂の動悸がまた速くなった。そしてさっきと同じように身体の芯の一部分が熱を持ち始めた。その現象は、たぶん一般的に言って『弟のような男子』によってもたらされるタイプのものではなかった。美穂は自身のその反応に狼狽してごくりと唾を飲み込んだ。