第18話 研修、カッター訓練の備品-3
ところが、最後の1人になった生徒は、もう力が残っていないのか、カッターに取りつくこともできなかった。 顔色が真っ青なのは、酷暑な日差しを考慮すれば、寒さのせいではなく疲労だろう。 先にカッターに登った同期生が手を伸ばすも、既に海中から腕をだすこともできない。 カッターに登った何名かが水中に飛び込んで助けようとするも、艇長はそれを静止した。
「貴方たちは水を掻きだすこと以外、考えなくて宜しい。 自分のことは自分で解決できないようじゃ、一人前には程遠くてよ」
「で、でも、このままじゃ……」
「必要ありません。 自力で上がらせなさい。 それが出来ないようなら、それまでのことね」
生徒数名が食い下がるも艇長が意見を変えることはなかった。 手のひらで水を掻い出す同期生が見守る中、けれどいつまでも浮かんでいられるわけもない。 助けて貰える可能性がないと自覚し、最後の力を振り絞ってカッターに取りつこうとして――慌てて崩れた体勢のまま伸ばした腕が空をきった。 あまつさえタイミング悪くやってきた中波にもまれるや、悲鳴をあげる間もなしに、みんなが見守る中、水中深く呑み込まれる。 それまで懸命に浮かんでいたというのに、沈む瞬間はアッという間だ。
悲鳴を挙げたのは、カッターから見ていた同期生からだった。
「せ、せんせい……!」
縋るように艇長をみつめる瞳の群れ。 けれど、艇長は動じない。
「こういう目に遭うことも含めての訓練だからね……。 溺れるようなおバカさんは、1分経つまで助けはしない。 それで耐えられないようなヤワな子なら、研修を受ける価値はないの。 五体満足で社会に出たいなら、日々の訓練に耐えられるように、普段から精進するしかない……」
誰に話すともなく呟きながら、腕時計を見つめ、溺れてからきっちり1分を計測する。 時計の秒針が1回転したところでやおら起きあがり、シュッ、綺麗な隆線を描いて水中に飛び込んだ。 水深はおよそ5メートル。 徹底的に鍛えられて【Bランク】を獲得した『指導員』である彼女にとって、素潜りなど造作もない。 溺れる最中に空気を吐いてしまい、意識を失って水中を漂う生徒を小脇に抱え、あっという間に水面に浮かぶ。 もしも彼女が学園の教員だとして、水中で冷たくなりつつある子が学園の生徒であれば、溺れたところで助けることなど有り得ない。 その程度のレベルの牝が、殿方が暮らす社会の表面で、同じ空気を吸うことなど許されない。 が、残念ながら今の彼女は『専門学校』の指導員であり、溺れてる子は専門学校の1回生に過ぎない。 専門学校を卒業した先にあるのは、表社会に出ることが無い『調理師』という専門職。 彼女自身はあくまで社会の裏方を養成する立場であり、1回生は裏側を支える予定の牝だ。 立場が違えば対応も違う。
溺れた生徒を連れて水面に浮かぶと、カッターの上から歓声があがった。 堰をきったように泣きじゃくっている子も、複数いた。 近づいてきた救命艇に溺れた生徒を預けてから、ひらり、カッターの縁にかけた片手だけで元の位置に戻る。
「待たせましたね。 さ、訓練を再開します。 もう一漕ぎ、沖合に向かいましょう。 1人減りましたが、その分はみんなでカバーなさい」
「「はい!!」」
再び動きだす25名を載せたカッター。 訓練は午後一杯継続する。 当然、離れれば離れるほど帰港する距離は長くなるだろう。 けれど艇長が指し示す方向は、明確に港の反対側を指していた。 艇長の仕事が何かといえば、無事に艇を帰港させること。 けれど艇長である前に指導員な立場からいうと、漕ぎ手たちの体力を限界まで削ることが優先順位の第一になる。 肉体的に限界まで追い込まれる経験は、専門学校の敷地で再現するにはハードルが高い。 海という広大で助力が外に求められない環境は、自分で作った壁を破るのに適している。