気配-5
勢いで問うてしまったが、田野山の意外な質問返しにたじろいだ。
楽しいです――直感がその言葉を妨げた。
「息苦しいだろ? ……オーナーも主催も、すぐに結果を求める。ま、金を出してる身にとっちゃ、当たり前なのかもしれんが……、にしても、だ。まったくもって待っちゃくれねえ。馬は本格化する前に使い減りするし、育て切らないうちに故障、引退だ。いや、オーナーと主催だけじゃねえ、生産だってそうだ。美吉の牧場がレースの使い方にまで口を出してきやがる。歯向かったら、こうだ」
田野山は顎をあげ、手刀で首を切った。「乗り役だってそうだ。早いうちから結果出さねえと、どんどん騎乗が減る。そこへきて地方や外国から乗りに来やがるだろ? 俺達ゃ馬を育てる余裕もないのに、騎手を育てる余裕なんてなかった。奴らは即戦力だもんな、いい狩場だぜ」
ボンヤリとしていて征嗣が言葉にできなかった、いや、敢えて言葉にしてこなかった鬱屈を、田野山は周囲を憚らず次々と明らかにしていった。
「……それで?」
「今年の新人の模擬レースを見に行ったんだ。愛衣はそりゃぁ見事に、毎度ドンケツ争いしてたよ。だが久々の女の子ってだけでスケベエな記者の奴らも集まってたし、話題作りしたいスケベエな馬主から、馬を預かりたい調教師がスケベ心丸出しにしてやがった。誰も、愛衣の長所も短所も見ちゃいなかった」
思い出して虫酸が走ったのか、絡みつく痰に咳払いをし、「このままじゃ、愛衣は潰される。滅多に持っちゃいない身体能力を使う前にな。だから手を上げた。これでも少しはサークルに顔がきくもんでね」
「あの子を育てたいってことですか?」
「……愛衣が不幸なのは、騎手になった時代だけじゃないな。思いっきり不細工なら気が楽だったろうに、見たろ? 化粧っ気なしであの見てくれだ。女も増えたが、まだまだ野郎ばっかりの業界にゃ、ちょっと刺激が強すぎる」
「前途あるお嬢さんを預かる先生がそんなこと言うとセクハラですよ」
冗談ぶって窘めつつ、愛衣のルックスを思い出していた。涼しげに澄んだつぶらな瞳が印象的だった。ほんの数言しか会話をかわさなかったのに、朝闇の中に見た愛衣の顔立ちは男社会だからこそ際立っているのではない、世間一般でも人気を博することは間違いない佳麗さがあった。
「教えてやってくれ。愛衣がツブれねえうちにな」
「ですから、なんで俺なんですか? 俺より勝ってる奴は何人も……」
「お前の言うとおり、将来を嘱望された大事なお嬢さんを預かったんだ。……ジョッキーん中でも、まだスケベエがマシそうな奴に頼みたいんだよ。娘を心配する親みたいなもんだ」
――何十年と競馬に携わってきた名伯楽にここまで見込まれる愛衣に嫉妬を禁じ得なかった。だから三月にデビューし、話題性も手伝って有力馬に乗っておきながら勝利を得ることができない様は、征嗣を余計に苦々しくさせた。
田野山の言う通り、レースでの愛衣は後手々々に回っていた。前を塞がれる、後ろから煽られる、追って思いのほか伸びない、目の前で何かが起こってから行動するものだから、ワンテンポどころかツーテンポ、スリーテンポ遅れての対応となる。レース後に折りを見て、半ば説教じみたアドバイスをするのであるが、愛衣はいまいち呑み込みが悪かった。
無理もなかった。いわゆる「レース勘」なんてものは、事前に用意している無数の想定の一つに対応しているに過ぎない。ドミノ倒しのように、ある牌が倒れるには、それ以前にいくつもの牌が倒れていて、いったい何個前の牌が倒れた時点で気づけるか、それだけの話だ。だが感覚的な征嗣の喩え話もまた、愛衣にとっては全く要領を得なかった。
それでも愛衣には騎乗依頼が来た。田野山が頼み回っていたのかもしれないが、そもそも馬主も調教師も、愛衣の初勝利が自分の馬であることは良い宣伝になるからだ。だが愛衣はことごとく期待を裏切り、五月に入ってもまだ勝利を挙げられずにいた。
田野山は愛衣に対して、調教時には指導をするが、レースでは特に何も言わなかった。じっくり待っているのだと思いたかったが、自分も同じ「馬乗り屋」である。俺だったらそんなヘマしないのに、と思うにつけ、レースにおける教育が自分に丸投げされているような気持ちになる。
3
恵美はもともと料理が好きだったし、結婚を決めた時からずっと栄養学を勉強し続けていた。味と栄養バランスを両立させた恵美の料理は、征嗣の自慢だった。料理だけではない。大学時代は馬術部に所属して馬の知識もあったし、表彰式のアシスタントとして主催の募集したコンパニオンたちの中でも一際輝いていたルックス、とかく悲観的な征嗣と違って、明るく楽天的な性格。騎手の妻として理想的で、周囲の誰もが羨ましがった。