縁側-3
豊川は、『遺言』という単語にドキッとした。すぐにどうなるとかではないけれども、癌を患っている人間の口から聞くと、非常に重い言葉だと実感した。
遺言と聞くと、遺産争いなど家族や親族間での骨肉の戦いを思い浮かべてしまう。金の切れ目は縁の切れ目と言うが、特に遺言による相続争いはこの言葉にピッタリだ。
まさかこの場で金の話があるとは思えないが、紀夫が重い言葉を呟くには、それ相応の思い何かを心に秘めているのだろう。
「押しつけがましく聞こえるかもしれんが、俺はおまえさんと望未がよりを戻して、菜緒と一緒に暮らしてくれやしないかと、いつも思ってるんだ」
豊川は、完全に意表を突かれた。まったく想定していない言葉だった。まさか元義父の口からそんなことを聞くとはこれっぽっちも考えたことは無かった。
「離婚の状況を聞いていると、どうにもならなくて別れたって訳じゃなさそうだし、互いに特定の相手もいないみたいだから、何とかならんもんか・・・・・・と、勝手に思ってるんだがな」
『特定の相手がいない』・・・・・・あの時付き合っていた若い男とは別れたのか、と豊川は思った。望未が再婚していないことはわかっていたが、それでも交際が続いているだろうと思ってはいた。
「余計なお世話だってことはわかってるし、そんなことが言いたくて呼び出したわけじゃないんだが、さっきおまえさんと菜緒が一緒にいる姿を見たら、つい口から出てしまったよ。やっぱり家族は一緒に暮らすのが一番だ。菜緒だっておまえものことも望未のことを恨んだりなんかはしていない。でもまた一緒に暮らしたいとは思っているはずだ」
豊川も家族は離散しないことが一番なのは、十分理解している。だが、生活していくと歯車が噛み合わないことも多々出てくる。お互いが上手くとりなし、何事もないかのように取り繕えば、平静を保つことも出来よう。
それがタイミングが悪いと、時に感情的な部分だけのぶつかり合いになることもある。そうなると収拾がつかなくなり、行き着く所まで行ってしまう。
豊川と望未はまさに典型だった。
「悪い。聞き流してくれ。これはあくまでもおまえさんたちの問題であって、俺がとやかく言う話ではないな」
つい出てしまったと言うのは本当だろう。裏を返せば、それだけ気に掛けてくれていることだし、離婚の発端となる愛人問題は豊川が仕出かしたことであるにもかかわらず、娘とよりを戻して欲しいと言ってくれていることは、何よりもありがたかった。
その日、紀夫とはそれ以上に深い話にはならず、豊川は義両親と菜緒の4人で食卓を囲んだ。
豊川は、久しぶりの団欒に浸っていた。最近では、同僚と飲みに行く時ぐらいしか数人で席を囲むことが無い。月に1回の菜緒との食事以外では、ほぼ一人の食事が定番化していて、いわゆる『ぼっち』生活だった。
食卓には、普段はあまり口に出来ない『おふくろの味』が乗った皿ばかりが並んでいる。外食で肉じゃがや煮物を食べる時もあるが、あくまでも『おふくろの味風』な感じで、どこかしか商品臭が漂っていて、本物を食べたという気にはならなかった。
こんな味に飢えていた。百合子の作った素朴な惣菜は、豊川の心も満たした。
紀夫も、以前に比べれば酒の量が減っていた。大きな手術をしたので当然と言えば当然だが。
「今日はいつもよりも飲み過ぎたな」
それでもこの日の団欒に気を良くしたのか、紀夫は終始機嫌が良かった。
「ほどほどにしておいてくださいよ」
百合子も体調を心配して言葉をかける。
「そうだな。そろそろ引き上げるか」
紀夫が席を立ち、団欒の席は終わりとなった。
「おい。ちょっと涼まないか」
食後のお茶を飲んでいた晃彦に、紀夫が声を掛けた。
晃彦を誘った紀夫は、縁側に腰を掛け、晃彦に隣に座るよう促した。
縁側は心地良い風が入り、ビールで火照った身体にはとても気持ちが良かった。
「本当はここでもう一杯といきたいところなんだが・・・・・・」
紀夫は残念そうに苦笑いをした。退院当初は、普通に飲んで大丈夫だろうなんて言っていたようだが、術後の身体の変化を自覚したのか、最近ではだいぶ自制していると百合子から聞いていた。
二人は無言のまま風にあたった。
この辺は、住宅街の中でも古くに造成されたエリア。交通量の多い国道からも距離があり、夜も8時を過ぎれば極端に車の行き来も少なくなる。風の騒めきと、虫や動物の声が良く聞こえる閑静な佇まいだ。
少し風が出てきて、草木同士が擦れ合うザワザワとした音が耳に心地良い。
「昔・・・・・・ここで菜緒と一緒に花火をしたのを憶えているか?」
菜緒がまだ小さかった頃、里帰りした際、ここでよく家族、親戚集まって花火をしたものだった。豊川もそのことを想い出していたところだった。
「時々こうやって夕涼みするんだが、いつもその光景が目に浮かんでな」
元気な頃は、昔を懐かしむような素振りはほとんど見せなかった人間だった紀夫を知っているだけに、目の前の喪失状態は抜け出たものの、まだまだ癌に罹患したことの心的ショックは十分に癒えていないようだと豊川は感じた。
「今度は菜緒が子供を連れてきて、同じように花火をしているのをここから見てみたいものだな」
その情景を思い浮かべているのか、遠い目で外を見つめている。
そんな紀夫の横顔には、珍しく自然な笑みが浮かんでいたのを豊川は見逃さなかった。眼光鋭い警察官の表情ばかり見てきた豊川にとって紀夫の自然な振る舞いは、ある意味異形に見える。
紀夫は孫、ひ孫とともに過ごす時間を夢見ている。それはつまり未来に希望を持っていることになる。癌を患い絶望感に苛まれた時間を経て、新しい自分として生きていくことを想像できるようになっている紀夫を見て、豊川も少し気が楽になった。