第三章 制裁されたハーフモデル-14
もう一人の若い女性の声が聞こえてきて、「はい……」と言う項垂れた男を改めて見た真璃沙が、
「……あっ!」
と声を上げた。マスクをしているから顔は伺えない。だがこのみすぼらしい髪は……あの男に間違いなかった。今日はスーツを着ていて少し雰囲気が違うから、同じ車両にいても気づかなかった。
「ん? 知ってる人?」
「え、はい……、前にも」
「前にもされたのね?」
女性が語調を強め、「これはストーカーだって可能性もあるわね」
若い方の女性と頷き合ったから、その時は人違いだったと訂正するタイミングを失してしまった。どうしよう、と思ったが、男を見ると項垂れたまま何も言わない。
(やっぱり、こういうことするキモオヤジだったんだ。あの時だってブサ野の勘違いで、ほんとはやってたに決まってる)
真璃沙はそう思えてきて、訂正しなかった。
「あのね、今から一緒に来れる? 被害届を書いてもらいたいの」
「え、あ、でも……私、今から」
また、だ。
何故被害を受けた方が、こんな迷惑を被らなければならないのか。レッスンに遅れることを懸念した真璃沙が首を振って断ろうとすると、
「こういう場合、被害届を書いてもらいたいの。迷惑行為じゃなく、わいせつ行為で罰するためにはね。親告罪っていうんだけど……」
それは真璃沙にはよくわからなかったが、とにかく所属したばかりで遅刻して、関係者の心象を悪くしたくなかったから、
「すみません。でも、私、どうしても行かなければならないんです。仕事で……」
と固辞しようとした。
「いい?」
ギュッと肩を掴まれる。「こういう男は許したらダメよ、絶対」
すると、男を抑えている若い女性が、
「モデルさん、でしょ? あなた。アスコエリア真璃沙さん、そうよね?」
と言ったから驚いた。「私、実はあなたをフォローして応援してるの。……ね、お願い。あなたがもっと有名になったら、色々不都合なことがあるんでしょうけど、こんな言い方してごめんなさい、今のあなたなら……、まだ、ね?」
若い女性の目は優しみに満ちていた。二人とも、警官としての正義感だけではなく、同じ女として、真璃沙の恥辱を晴らそうとしてくれていると感じられた。
「職場の人に替わってもらったら、私からも話してあげるから」
二人とも真摯な目で真璃沙を見てきていた。
この前のブサ野ならばともかく、この目を振り切って立ち去ることはできそうにない……。
「わかりました……」
そう言うと、女性が肩を叩いて、ありがとう、と言った。
真璃沙は溜息をついて携帯を取り出し、事務所はこんなトラブルを許してくれるだろうかと恐れつつ電話をかけた。
事務担当は真璃沙の話を聞いて驚いていた。頭の中で整理がつかないまま電話してしまった真璃沙が、事情を説明できずに困った顔で隣の女性をチラリと見ると、頷いて手を差し出してくる。
「わたくし、U署の宮本と申します。そちらにお勤めのアスコエリアさんが、痴漢被害に遭われまして。……ええ、はい、そうです」
真璃沙は気を揉みながら、電話をしている女性を見守り続けていた。
「……はい、被害を受けられた方のお名前は絶対に出ません。……そうですね、調書などを取りますから暫くは……。それにアスコエリアさんもショックを受けられているようですから、終わりましたら今日はご自宅にお送りしようかと。……はい……ええ、わかりました。ご本人にもお伝えします」
電話を切った女性は携帯を真璃沙に返し、
「ね? ちゃんと話せば大丈夫だったでしょ? とても心配されてたわ」
と柔和な表情を向けてきた。真璃沙がホッと息をつくと、
「じゃ、広瀬さん、行きましょうか」
と、若い方の女性を呼び、憎き犯人を連れて地上へ続く階段を登り始めた。
パトカーが呼ばれるのかなと思っていたら違った。宮本捜査官の事務所への電話や、広瀬捜査官が自分の事を知っていて応援しているという言葉にすっかり信頼を置いた真璃沙だは、不思議に思いながらも黙って追いて行っていた。二人が裏通りコインパーキングに入り、駐めていたミニバンに乗り込もうと駐車料金を払う時も、おかしいなとは思ったが、何も言わなかった。
だが、後部のスライドドアから男が乗せられ、そしてそのまま宮本捜査官に乗るよう薦められると、
「あ、あの……」
男のすぐ隣に乗せられることには、さすがにたじろいだ。
「ごめんなさい。助手席には乗せたらいけない決まりになってるの」
「あ、なら後ろへ……」
三列目を指したが、宮本捜査官は首を振って、
「後ろは……触られたら困る物もあるから。大丈夫、私も隣に乗るわ」
ならば宮本捜査官を挟んで乗らせて欲しかったが、運転席に入った広瀬捜査官が急かしてきた。痴漢の隣に座るのは本当に嫌だったが、真璃沙は渋々と後部座席に入り、なるべく男と距離を取るように長い脚を折った。
男は項垂れたまま、真璃沙の方を見ようともしない。