第二章 報復されたシングルマザー-6
保彦は女の言ったことがよく分からなかったが、
「そう。じゃ、これで心置きなく次の仕事が探せるかな」
継がれた女の言葉で、漸く言っている意味が分かった。
もちろん保彦に言ったのではなく土橋に言ったのだが、女に言われた瞬間カチンときた。しかもその土橋の表情を見た女が、クスリ、と追い打ちをかけて笑う。あら、まだ辞めるつもりじゃなかったの? そう言っているかのようだった。
「……ところで広瀬さんは、なんでわざわざ土橋さんの物なんか持ってきてあげたの? そんなに親しかったかしら?」
「いえ、その……、たまたまです」
保彦の怒りを無視して矛先を向けた女の問いに、目を見返すことも、嘘も思いつくこともできずに、あの勝気な汐里からは想像つかないほど、しおらしく答えていた。
「そ、優しいのね」
そう言って女は汐里の肩をポンと叩いたあと、冷たい笑顔のまま、「でも、優しくする相手は選びなさい? そうやって誰にでも優しくしようとするから、女は職場で媚びて仕事をする、なんてバカなことを言う人が出てくるわけ。特に……、事業に貢献できない人に優しくしたって、あなたに何のメリットもないわ」
汐里にアドバイスしている途中、また保彦をチラリと見て、その整った鼻から少しふき出していた。
何なんだ、この女。
怒りっぽい質ではない保彦だったが、さすがに女の態度に頭に血が上っていた。こっちを見ていない女に向かって口を開こうとすると、汐里からは土橋が見えていたから、焦ったように、
「マ、マネージャーこそ、今日こちらで打ち合わせでしたでしょうか?」
と会話を繋いだ。汐里の細まった目が、面倒事はやめてくれ、と保彦に訴えていた。
「え? ああ、プリンシパルに急に呼ばれたの。何でも採用試験の最終選考会議があるらしくて。二次試験で提出させたレポートあるじゃない? あれ、今年は私もプリンシパルに押し付けられて評価したのよね。だから、レポートの採点した君にも関わる責任があるだろ、なんて」
女は周囲を少し気にしてから小声で、「アスコエリアさん、自分だけで評定して責任持たされるのが嫌なのよ、きっと。男のくせに情けないの」
と可笑しげに笑った。
「そうなんですか。マネージャーも大変ですね」
汐里も愛想笑いを浮かべる。
「こんなことに時間取られるの迷惑なんだけど。……学生の子たちが書くレポートなんて、笑っちゃうくらい大したことないじゃない? 中には自分の能力に自信持ってますって感じがヒシヒシと伝わって来る子とかいるのよ? なんて言うのかな、そういう子が書いたレポートって、やたら仰々しくて知識、知識のオンパレード。読んでていたたまれないし、正直苦痛なのよね。読む価値あるレポートなんて一つもなかった」
さっきは土橋が貶されてカッとなったが、今度は保彦自身が貶されたので腹に起こった怒りは比ではなかった。
保彦も選考過程の中で、一週間以上睡眠時間を削り、学術論文や市況情報を買ってまでレポートを書いた。それが苦痛? 無駄?
「では、どうやって選考されたんですか? 二次通過して、最終選考に残った学生もいるわけですよね?」
汐里と話しているのに急に土橋に割って入られて、女は鬱陶しそうな横目だけ向け、
「ああ、適当……、って言ったら語弊があるか。選考したらね、私も総評とか書かなきゃいけないわけ。だから、単純に書きやすい子を選んだ感じかなぁ……。『こういうところは、少し工夫すれば新たな価値が見いだせる可能性がある』とか。今の学生の子に工夫する頭なんてあるわけないんだけどね」
「それじゃ、一所懸命書いた学生の子が可哀そうじゃないですか?」
保彦の言葉に女がクルリと身を向けた。笑みの冷たさは、もう誰が見ても目の前の中年に対する軽侮を隠さないものになっていた。
「土橋さん。私たちの仕事って、結果が全てよね? 役に立たないレポートなんて、どれだけ力入れようが、どれだけ時間かけようが、遊んでるのと一緒。ヌルい環境にいると、そこがよく分らないのね。だから土橋さんも色々苦しい思いをされたんじゃなかったかしら?」
そして女は腕時計を見て、無駄話してたら遅れるわ、と汐里には手で挨拶をしたのに、土橋は全く無視をして踵を返した。自分から声を掛けてきておいて、一方的に訊きたいことを訊き、挙げ句の果てには無駄話と言い放って去っていく。
土橋のことを蔑んできたのは自分も同じだったが、女の自信に満ち溢れた態度は実に鼻についた。それだけならまだしも、保彦が全力で仕上げ、他の学生を圧倒したかもしれないと内心悦に入っていたレポートを、ゴミ同然だと言ったのだ。
「何だ……」
思わず呟いていた。「あの女」
汐里が、えっ、という意外な顔をする。
「誰って、宮本エグゼクティブマネージャーでしょ……?」
「いや……、下の名前はなんだっけ?」
「宮本、涼子マネージャー……」