第二章 報復されたシングルマザー-28
誌面への登場が増えるうちに真璃沙の中で自信が芽生え、本業としてモデルをやっていきたいと希望するようになった。
本当は在学中からプロダクションに入りたかったが、親の同意がなければならないから、あくまでも一般人として出るしかなかった。
母親は父を説得してはくれていたが、ないがしろにしてまでは後押しをしてくれない。だから高校卒業後、プロのモデルになるには、どうしても真璃沙の手で父親の同意を取り付ける必要があった。
決して軽い気持ちでこの仕事がしたいわけではない。華やかなばかりの世界ではないことはよく分かっている。やり抜く気概はあるし、読者モデルで積んだ実績もある。せっかくこれほどの容姿で生まれてきたからには、これを活かした仕事がしたい。こんな挑戦ができるのは、父の血のお陰である。決して泣き言を言ったり、親を頼ったりするつもりはない。
そう真摯に説得すれば、親なのだから分かってくれると思っていた。
だが昨晩、真璃沙の方から対話を求め、背筋を正して話したにも関わらず、父親の答えは変わらなかった。途中から涙を流して訴えたが、
「その馬鹿みたいな髪をまずやめろ。だいたいな、女が仕事で身を立てようなんて思うんじゃない。結婚して、男の稼ぎで暮らしていけたほうがよっぽど楽だし、お前にとっても幸せなんだ。女が社会で仕事だ仕事だと出しゃばるとロクなことがない」
頭に血が上っているとはいえ、父親が言った言葉はショックだった。言い放った後、父親は英語で何かをブツブツと独りごちていた。何を言っているか分からなかったし、隣で母親は困った顔をしているだけだったが、表情と声色で何やら薄汚いことを言っているに違いなかった。
バッグの中にはプロダクション所属の契約書が入っている。真璃沙が勝手に父の名前を書いた。ネットで調べたら、未成年は親権者が雇用契約を取り消すことができるということだった。だがこれまでも承諾なしで勝手にやってきたのだ。今後も勝手にやってやる。モデルとしてそれなりに収入を得ることができるようになったら、家だって出る。
昨日の父を思い出すだけで、ムカついて仕方がなかった。
電車が揺れた拍子に、トン、と吊革を持つ腕に隣に立った男がぶつかってきて、真璃沙は小さく舌打ちした。
(キモいよ、オッサンっ)
チラリと見ると、何のロゴもプリントされていない色褪せた長袖Tシャツ、安物のジーンズに汚らしいスニーカー姿。イケてない、というよりブサい風体をしているのに、なぜそんなにもファッションに無頓着でいられるのかと、そんなことすら腹立たしくなる。
男は真璃沙の舌打ちが聞こえなかったのか、真剣にスマホの画面を見つめていた。覗いてやると呟きアプリが開いていて、ずっと同じ画面を読み込んでいた。視野角が足らなくて詳細までは分からないが、じいっと弛んだ瞼に覗く目を血走らせて見つめている。
(こわ……)
キモいと一度思うと、気にならなかった加齢臭がモワリと鼻先に漂ってきて、男から距離を取りたくなった。
周囲には逃げ場がない。なら気を遣ってそっちが距離を取れよ、と苛立って、もう一度男の風体を頭の先からつま先まで睨んでやろうとしたら、
(……!)
横に立った真璃沙からジーンズの前面が尖っているのが分かった。寄り皺を見間違えたかと疑ったが、ぼってりとした腹が息をするのに合わせてピクンピクンと動いている。目の前で座っている人々は、腕組みをして眠りこけたり、本を読んだり、スマホを覗いているから全く気づいていない。
(うそ……マジかんべん……)
罵ってやりたいが、真璃沙を見てでも、エロページを見てでもなく、呟きアプリを見て勃起しているのだから、見苦しい以外の実害はない。
真璃沙は男から目を逸らし、立ち位置もなるべく離れさせて、それでも漂ってくる加齢臭に耐えているしかなかった。
乗換駅への到着を告げるアナウンスがした。電車が減速を始める。助かった、と身をドアのほうに向けたが出口までの道が塞がれていた。
「すみませーん。おります」
声をかけると、降りるつもりはない何人かがスペースを詰めて通り道を確保しようとしてくれたが、真璃沙が通るだけの十分な余幅は生まれなかった。モタモタしていると、やがて乗車してくる人に押し返されて降り損ねそうだから、完全に停車する前から出口を目指して進んでいった。
……背後から加齢臭がする。どうやら男にとっても降りる駅のようだ。
脅威に追われるように進もうとするが、人垣に行く手を阻まれた。これ以上はドアが開かなければ進みようがない。早く開いて、と待っている間、背中にゾゾッとした悪寒を感じた。
ヘタクソな運転手なのか、停まる直前に強いブレーキがかかって、慣性で立っている全員が一方向によろけた。
(ちょっ……!)
太ももの裏にツンと何かが当たった気がした。