(史実に基づいた空想です)-1
「勝子、うつわに水を入れておくれ。」
母の声がひびいた。
「はい!」
国民学校五年生の勝子は、床に敷かれた薄縁(うすべり)からはね起きると、小走りで廊下を抜けていった。
もう空襲の危険が勝子の住む小さな都市にまで迫っていたため、勝子はいつでも行動できる服装で眠りについていた。
勝子の家は、旅館を営んでいた。しかしもうそのころは旅行などするひとはなく、この小さな都市を訪ねた役人や軍の関係者が泊まる程度になっていた。
勝子は旅館の裏手にまわると、井戸の滑車を何度も回して、手提げの桶に水を満たした。その桶を提げて今度はゆっくりと、大広間に向かって歩いていった。
かつては多くの客が夜ごと宴をもよおした大広間だったが、今は町や隣組の会合に使われる程度だった。そして芸妓さんが舞い、能狂言が演じられた舞台に、白い布でおおわれた祭壇がもうけられていた。
それは戦地で亡くなって、英霊さまとなった兵隊さんに祈りを捧げるための祭壇だった。旅館の大広間は今や、この英霊さまを偲ぶ儀式の場となることが多かった。
祭壇には色鮮やかな果物を盛ったかごが供えられ、祭壇の両側にはさしわたし一尺(約30cm)ほどの金魚鉢のような丸いうつわが置かれていた。
その前に、ご家族のもとに届けられた 白い布に包まれた英霊さまをおさめた箱が置かれる。
勝子がそのうつわに水を静かに注ぐと、底に平たくしなびていたものがヒラヒラと、美しい花になって開いた。
それは水中花だった。うつわに水を満たして、祭壇の両側に水中花が咲きそろったのを見ると、勝子は遠い日の事を思い出した。
夏のお祭り、ちっちゃな勝子は祖母に手をひかれて夜店を歩いた。
二人は祭りを楽しむのではなく、旅館の代表として挨拶にまわっていた。
夜店の一軒一軒にも声をかけてまわっていると、祖母は店の主に感謝を示すために、菓子や玩具を次々買っていく。そのひとつが水中花だった。
ランプの光を浴びて、コップの中で色鮮やかに、しかし静かに咲く水中花は、勝子にとって咲かせてみたい花だった。
だが祖母も勝子の母も、この水中花はお気に召さない花のようだった。
「……水中花は、ホンモノの花が使えないところで咲かせるニセモノの花だからね。うちでホンモノの花を見てればいいじゃないの。」