窺い知れぬ未来-2
イーラはしばらく起きないだろう。手持ち無沙汰になった僕は、ラサと話がしたくなった。
外は夏が真っ盛りだった。空の青と山や畑の緑が、目の覚めるほど眩しかった。
暑さに半裸のような格好でラサは仕事をしていた。なんという服か知らないが、胸だけ紺色の布地で隠し、下はジーンズを切って作ったらしい短パンだった。牛乳のように白い肌は日焼けで赤くなっている。手を挙げるたびに、オレンジ色の腋毛が鮮やかに映えた。
「その格好、農場の人に悪いんじゃない? 日本人なら興奮するぞ。」
「え? 暑いんだもの。あたしは気にならないからいいわよ。」
そう答えて手を休め、近づいたラサから、濃い女の体臭が漂ってきた。胸を覆っている布地が汗に黒ずんで見える。乳首が突き立っていた。
僕はイーラのせいで女に食傷気味になっていたので、興奮どころか、ラサの女っぽさが却って気持ち悪いくらいだった。
僕がイーラのことを話したら、ラサは言った。
「女になるんじゃないの? あの子、いやらしいから、女になる体に過剰に反応してるのよ。子供のくせに誠とセックスするしか、能っていうか、することなかったでしょ? 今から妊娠したがってるのよ、体が。」
ほとんど悪口のような物言いだった。
そこへドンブロフスキーさんが現れた。タオルで顔の汗を拭き拭き、口髭のあたりに笑みを浮かべながら
「今年は豊作だ。穫れすぎて困るくらいだ。ホウレンソウとレタスだけで富士山が作れそうだ。忙しくてたまらないよ。」
この人に会えば、まず心が落ち着く。自分が幼い子供に帰った気にさえなる。家族のラサでもそれは同じであるらしい。
「アルバイトの人にもボーナスをあげるよ。収穫がひと山越えたら、ラサも旅行しておいで。ああ、誠くんにも勿論、出すからね。イーラは勉強が大好きだと言っている。」
そのあと急に辛そうな表情になり
「悪いけれど、誠くん、夏もできるだけイーラといてもらえないかね。本当にすまない。感謝しているよ。」
「いえ、全然かまいません。でも、あの、もしかして、僕の実家にイーラを車椅子で連れていくの、できるんじゃないかと思いました。」
ドンブロフスキーさんは、思いつかなかったという表情を見せた。
「そうか! 君なら大丈夫だ。イーラも喜ぶに違いない。夕食のとき私からも話してみよう。うん、今日もいいことがあった。」
ドンブロフスキーさんは仕事に戻っていった。
「Rasa, vi estas ĉi tie.」
大きな声がしたのでそちらを見ると、黒髪の若い外国人だった。細身で目も黒い。神経質そうな、しかし、気持ちの良い顔つきをしていた。
「A, Victor ! 」
「ちょっと手伝ってくれ。耕運機がひっくり返った。」
ビクトルと呼ばれた青年は、僕を認めて日本語に変えた。
「ひっくり返したんでしょ。ばかね。あ、誠、この人、オーストリア人のビクトル。五月から働いてるの。」
「初めまして。誠です。エスペラントのほうがいいですか。」
「初めまして。いえ、大学で日本語を勉強していました。ドイツ語できますか? 誰も話せる人いないから淋しくて。」
僕は音楽で習ったことのある歌を思い出した。
「Sah ein Knab' ein Röslein steh'n.」
「おっ、ゲーテの野ばら。」
ビクトルがにやりとした。ただ、僕はそこしか覚えていなかった。ビクトルは嬉しそうに
「僕はゲーテもシラーも好きだなあ。友情の何たるかを考えさせられたよ。」
「耕運機は?」
話が長くなりそうだと思ったのか、ラサが横槍を入れた。
「そうそう。誠くん、ではまた。」
ビクトルは言ってからさっさと一人で戻り始め、ラサが慌てて追いかけていった。
ラサも行ってしまったので、する用事もない僕は部屋へ帰ることにした。部屋のコンピューターでゲーテの話でも調べれば、これからビクトルと話す話題を作れるだろう。イーラはまだ眠っているに違いない。
太陽は神々しく照り付けていた。草木の葉から反射してくる光にさえ、目の奥が痛むようだ。
ドアを開けると、部屋の薄暗さに僕は一瞬前が見えなくなった。それでも中心がぼうっと明るくて、夜中に白百合を見たような錯覚があった。
「誠さん。」
イーラの声だった。白百合は裸のイーラだった。イーラがベッドの脇に立って、緑の瞳でこちらを見つめていた。