5.事件-4
『シンチョコ』の前庭に並んだプラタナスも、その葉が色づき、朝日に明るく映えていた。
この春高校を卒業し、家業の工務店に就職した将太は、子供の頃からまるで家族の一員ように関わってくれたこの店の主ケネスを心から慕っていた。卒業とともに将来の約束を交わした音楽教師鷲尾彩友美と現在交際中で、結婚することを彼女の両親に認めてもらうために、将太は祖父建蔵の元で必死で働いていた。彩友美の両親は、将太が一人前になり、経済的に安定しない限り二人を結婚させるわけにはいかない、と言い渡していたのだった。
「久しぶりやな、将太」
「ケニーおっちゃん、ごぶさた」
その作業着姿の若者は持ってきた菓子折をテーブルに乗せ、向かいに座ったケネスの前に置いた。
「なんや、こないな気ぃ遣わんでもええがな。しかしスイーツの店によその菓子を持ってくるなんぞ、なんちゅう無神経さや。しかも開店前のこの忙しい時間帯に」
ケネスは笑った。
「ごめん、それもそうだね」
将太は頭を掻いた。
「そやけどわい、この店のフィナンシェ、大好きなんや。誰からか聞いたんか?」
「うん。マユミおばちゃんに」
「へえ。おまえもなかなか気が回るようになったやないか。感心なこっちゃな」
将太はまた頭を掻いた。
「どや、彩友美先生とはうまくいっとるんか?」
「うん。お陰さまで」
「ご両親の許しはもらえそうなんか?」
「うーん、まだ許可は出てないけど、感触は悪くないよ」
「そうか。まあ、頑張りや」
「ありがとう、おっちゃん」
ケネスは将太の目を見つめ、静かに言った。
「将太、高校時代荒れてたおまえは彩友美先生に救うてもろたわけやけど、正直今はどうなんや? 母ちゃんの香代さんのことどない思とるねん」
将太はうつむいた。
「正直言って、まだ母ちゃんのやったことは許せない。でも俺、あの人を憎むことなんかできないよ」
「そうやろな。それでええ、将太」
「現実を受け入れるしかない、って今は思ってる」
「あれから三年半経ったんやな。早いっちゅうか……」
「そうだね……」将太は伏し目がちにテーブルのカップに手を掛けた。
ケネスは少しテーブルに身を乗り出して言った。
「もし、もしやで、母ちゃんと再会できたら、おまえなんて言う?」
「……」将太は口をつぐんだ。
「言わば生き別れ状態やろ? いずれひょんなことで出会うかもしれへんで」
「たぶん、」将太は顔を上げた。「言いたいことは山ほどあるけど、何も言えないと思う」
「そうか……」
「母ちゃんが違う男のものになった、なんて俺は信じたくないんだ。でも、それが現実だと思うと……」
将太は指で涙を拭った。
ケネスは躊躇いがちに言った。
「今さらやけど、それ、ほんまに事実なんか?」
「え? 事実かって?」
「いや、ちょっと信じ難い話やから……」
「じいちゃんが言ってた。母ちゃんがいなくなってすぐ手紙が届いたって」
「そうらしな」
「『好きな人ができました、もう家には帰りません』って書いてあったらしい」
「おやっさん、まだ高校生のおまえにそんな酷い事実、教えてくれたんか?」
「じいちゃん、相当怒ってたから……」
「他にはどんなことが書いてあってん」
「何も。たったそれだけだったって」
ケネスはずっと心に引っかかるものを持っていた。出て行く前の香代は病床の夫稔をかいがいしく世話していた。もちろん息子の将太も愛し、義父の建蔵にも人並み以上に尽くしていた。それはケネスも、他の知人の誰もが疑いなく知っていたことだ。その香代が大切な家庭をあっさり捨てて、その上たった一文の、あんな突き放すような手紙を書いてよこすだろうか、と。
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