0.プロローグ-1
K市すずかけ二丁目、一級河川篠懸(すずかけ)川近くに広い敷地を持つ「志賀工務店」がある。江戸時代の頃から続くと言われているこの工務店では現在、町の商工会が認定しその職人技の高さを証明する「すずかけマイスター・ゴールド」の称号を持つ志賀建蔵(71)が棟梁として現役で活躍していた。
建蔵の下で働く職人の中に、彼の孫将太がいた。今年成人を迎えた彼は、地元のすずかけ工業高等学校を卒業した後、すぐに家業の工務店に就職。今は建蔵の片腕として、またこの工務店の跡継ぎとして立派にその職務を果たしている。
ただ、将太は高校時代ひどく荒れていた。心に深い傷を負っていたからだ。それを救ったのは当時の音楽教師で担任の鷲尾彩友美だった。彼女は将太の背負わされた重い辛さを受け止め、同時に彼の持つ熱い気持ちに応えてその傷を癒していった。その彩友美は将太が高校を卒業して一年後に彼と結婚し、現在二人は工務店の敷地内に建蔵が建てた一軒家で仲睦まじく暮らしている。
将太の心がすさんでしまった原因は、その母親が家を出て行ったことだった。彼が高校に入学してすぐ、長く病を患っていた父親が亡くなった。その直後、母香代は他の男の元に走ったのだ。
多感な将太には酷い出来事だった。祖父の建蔵も激昂し、同時に将太への不憫な思いを募らせ、このたった一人残された孫を守るためにあらゆる努力をした。しかしいかんせん世代の違う建蔵には将太の心の奥底まで見通すことができず、一時期手詰まり状態になっていた。
将太が結果的に道を踏み外すことにならなかったのは、同じすずかけ町の三丁目にチョコレートハウスを構える建蔵の友人のケネス・シンプソンや彩友美の存在があったからだった。将太に真剣に関わり、親身になって相談に乗ってくれた古くからの友人であるケネスはもとより、将太の高校時代に担任として彼を信頼し、守り通したそんな若い彩友美を、建蔵は心から信頼し大切にしているのだった。
彩友美(25)は工務店の豪奢な門の脇に立つ大きなケヤキの木の下に立って、首に掛けたタオルで額の汗を拭きながらペットボトルの水を喉を鳴らして飲んでいる将太に目を向けた。
「将ちゃん」
木のそばに立ち、その太い幹を撫でながら力強い枝振りを内側から見上げていた将太は振り向いた。
「なに?」
「ほんとに立派な木だよね」
「じいちゃんの自慢の木なんだ。うちのシンボルツリーってとこかな」
将太は妻の顔を見て微笑んだ。
「この大きさ……もうどれくらいの間ここに立ってるのかな……」
「ケヤキは成長が早いから」将太はまたペットボトルを口に持っていった。「それでも200年ぐらいは経ってるってじいちゃん言ってた」
「ほんとに?」彩友美は驚いたように言って思わずその巨木を見上げた。
「俺もちっちゃい頃からこの木には世話になったよ」