ぴあのと川辺とレイチャールズ-2
歩く道々、私も自分の名前を名乗った。小野 恵都。励は、「オノケート?変ってんね」と言い、暫くケート、ケート…と反芻していたが「良いじゃん、恵都。ガイジンぽくてさ」そしてまたさっきのようににっこり笑った。爽やかで、弾けるような、そしまだ、無垢な少年そのものの笑み。「あなたの名前もカッコイイじゃない。レイ・チャールズみたい」
私は、今度はにっこりと綺麗に笑えていた。たぶん。
「綺麗な家だね…。」
「そうか?入って」
閑静な住宅地の一角に励の家は有った。小綺麗な一個建ての青い屋根の家の前には、しっかりと励の名前が記して有った。
居間に案内されると大きな5.5インチテレビがあり、私はそのすぐ側にある小さな灰色のドアに通された。
「………うそ。すご…。スタジオ?」
そこは地下室になっていた。扉の向こうは狭く長い階段が降りていて、体を小さくしながら――そんな必要などなかったのだけれど――降りていくと、厚く重たい扉が待っていた。その更に向は、見掛けない機材がゴロゴロと散在していた。
あははは、と快活に笑いながらレイは部屋の中央まで歩いていく。
「スタジオなんて大層なモンじゃないよ。それに、それは親父の昔使ってたやつ。おれがいじれるのはコレだけ」
言うと、大きなグランドピアノの前で、黒光りする蓋をそっと撫でた。
「…お父さんなにやってる人だったの?それに、励、ピアノ弾けるの?」
「親父の話は今は良いだろ。とりあえず、お前、何か歌えよ」
「歌うって何をよ?」
「何でも良いよ…、そうだな、ジャズなんかいい」
「ジャズ?」
十五歳の少年からジャズを歌えと言われ、私は戸惑った。私はそれほどジャズが好きなわけでは無かったから、自分に歌えそうなジャズソングを探して必死に記憶の引き出しを探った。
「…サラ・ガザレク、かな…」
最近ジャズ好きな父親が買ってきたお気に入りのCDだ。しめやかなウイスパーボイスが素敵だなと、密かに私も聞耳を立てていたりする。
「おっ、いい趣味」
ぱっ、とリズミカルに上げた両眉がレイの表情を一回り明るくした。
「じゃあさ、これ、イケる?」
レイの大きく骨ばった十本の指が繊細なメロディを奏でる。
「あ、これなら分かるわ。」
ユアーズ。実は私はトラックナンバーをこっそりチェックしていて、いつもサラのCDがかけられるとこの曲が流れるのを待つのだ。
「じゃあ、いくぜ」
しん、とした木製のスタジオの中が、いやに広く冷たく感じた。
レイがその大きな指で沈黙を破る。親しんでいるメロディに安心したのだろうか、優しい暖かさが、音譜とともに部屋じゅうに満ち満ちていく。
私は、目を閉じてそうっと息を吸い込んだ。
気が付けば、口を突いてメロディが溢れだしていた。歌詞は聞きかじりで覚えたせいで曖昧な部分が多かったから、そこは適当にそれらしく作り替えたり、判らない部分はメロディのみで誤魔化した。
私は、目を閉じていつもの自分の部屋を、一人で向かう小さな机と椅子の小さなスペースを思いうかべながら歌った。アフターナイン、真っ白な勉強机の上には珈琲とやりかけのテキスト、立ち昇る珈琲の湯気が細く通り抜けるくらいのドアの隙間。小さく聴える、ピアノの旋律。 その部屋の椅子に腰かけているのは私ではなかった。それは綺麗なダークブラウンの瞳をしたサラだ。ハミングしながら小綺麗に切り揃えたショートカットを揺らしている。部屋は綺麗に彩られたショウ・ステージへと変わり、光をまぶたの裏に感じながら、サラは――そして私は―――歌い続けている。
「……すげえ、気持ち良い」
ピアノの旋律の余韻がスタジオの壁に吸収されていくのに耳を澄ませるレイは、本当に気持ちよさそうだった。